おかあさん
「生まれたとき、どんなだったか覚えてる?」
「パチパチした」
2歳を迎えるころ、言葉を口にし始めた長男に話しかけた。
「目をパチパチしてたの」と聞き返すと「違う」という。
パチパチって何のこと。助産婦Aさんは気になっていた。
昨年10月の3回目の結婚記念日の夜。
夫のワインを飲みながら、長男のお産のビデオを眺めていた。
「はーい、いらっしゃーい」。
助産婦の声に迎えられて産声を上げた息子に、周りから拍手が起きた。
「いやー、このことや」。
パチパチと鳴り響くその音を聞いた瞬間、確信した。
「この歓声を、この子はちゃんと聞いて生まれてきたんだ」
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生まれた時の記憶はAさんにもある。
暗いところから突然、真っ白な光を浴び、
見上げる天井には雨漏りのようなしみがあった。
「病院の分娩室だったのかも」
だが、母親に記憶を話すことはずっとなかった。
2歳で父の会社が倒産。
夫婦でうどん店を営んだが立ち行かず、母はスナックに働きに出た。
深夜、部屋に漂うタバコのにおいに帰宅を感じると、泣き止んで眠った。
夫婦げんかの絶えない家庭だった。
思春期になると、母を嫌い始めた。
母との長いわだかまりが解けたのは長男を産んでから。
産後の世話に来てくれた最後の日だった。
長男をふろに入れた後、母はスプーンで湯冷ましを飲ませていた。
「私の子供になにするの」
見るなり声を荒げた。水分を補うなら母乳を与えればいい。
そう言うと、母は
「そんなにしゅっちゅうおっぱいをあげていたらあんたが病気になるで」と言った。
その夜、布団に潜り込むと涙がこみ上げてきた。
息子をあやす母の姿。
きっと自分にもそうしてくれたはず。
「お母さんが帰るのさみしい」。
隣で寝ていた夫に、子供のように泣きじゃくった。
「その言葉はお母さんに言わないと」。
夫は、母のいる部屋に押し入れ、隣に寝かせた。
真っ暗な布団の中で胸にしがみつく。
母はだまって背中をさすってくれた。
「どんどんちっちゃくなって、お腹の中にいる気がしたの。
ずっとこれをやってほしかったんやって」
息子の「記憶」を聞いてから、一層スキンシップを取る。
手を握ったり、ギュッと抱きしめたり。
「愛情はちゃんと伝えたい。きっと覚えていると思うから」
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母と子だけが共有できる出世時や胎内の不思議な記憶。
産婦人科医Bさんは3年前から来院者の協力を得て調べてきた。
「お腹に急に包丁が入ってきた」
と話す帝王切開で生まれた男児の話に興味がわいてからだ。
ある保育園で母親にアンケートした。
「おなかの中にいたときのこと」を覚えている幼児は34%。
「生まれたとき」は24%に上った、という。
「プカプカしていた」「蹴っていた」「暗かった」。
そう話す子供の記憶が本当かどうかはわからない。
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主婦Cさんも不思議な記憶との出会いがある。
三男の出産を間近に控え、4歳の次男に話しかけたときだ。
「どうしてお腹の中であんまり動かなかったの」
「ママが痛いっていったから。かわいそうだったから静かにしていたの」
次男の妊娠中はつわりがひどく、食後は横になった。
夫は食卓と時計に目をやり、早くかたづけろと言わんばかりの態度を見せた。
つらさはわかってはくれず、イライラが募った。
妊娠7ヶ月の夜。お腹が激しく動いた。
「痛い、あまり動かないでよ」
左手のこぶしでわき腹をたたいた。
「1回だけ。それから出産までは本当に静かだったんです」
次男が「記憶」を口にしたのは1度。
聞き返しても「覚えていない」とおどけるだけだ。
「私は一生忘れません。
お腹にいるときから、私に思いやってくれたこの子のやさしさは」
(出典:朝日新聞 2003年1月5日 27面 おかあさん4)
あと3ヶ月で私のところにも新しい命が生まれます。
それもあって、今回この記事がとても心に響きました。