モスクワ音楽院留学記 by NY
夏休みを日本で過ごし、再びモスクワへ戻って来る飛行機の中で、私はものすごく緊張していた。
何の不自由もない日本の生活を2ヶ月送った後で、モスクワでの生活に適応できるか心配だった。
シュレメチェヴォ空港に着き、パスポート審査で一時間以上待たされた後、
やっとスーツケースを受け取れると思いきや、どこを探しても見当たらない。
落し物のカウンターで調べてもらったところ、間違って次の便に乗ってきてしまったらしい。
「あと10分で着きますよ」その言葉を、まだ残っている日本の感覚で信用した私は、
さらに1時間ほど待たされた後で、ようやくスーツケースを受け取り、
頼んであったタクシーの運転手を探した。
が、いない。ここで日本の感覚は完全に吹っ飛んだ。
私のモスクワ生活2年目の幕開けである。
寮の自分の部屋に戻って、夏休み中に盗られないように南京錠をかけてあったクローゼットから
取り出した物をかたずけながら、昨年のことを思い出した。
昨年は、かたづけするものがなかったのだ。
鍋、食器、掃除道具、すべて自分で買い揃えなければいけなかった。
文字通り、ゼロからの出発。カルチャーショックとロシア語の洪水でクタクタの毎日だった。
私の住んでいるモスクワ音楽院の寮は、
音楽院から徒歩約40分のところにある5階建ての建物である。
2人部屋で、台所、シャワー、トイレ、洗面所は共同で使う。
まず最初のカルチャーショックは、トイレに便座がないことだった。
モスクワに来る前に、「あると便利よ」」と言って近所の人にいただいた便座除菌クリーナーは、
まだ1枚も使わずに残っている。
なぜ便座がないのか。習慣といえばそれまでだが、もし理由があるとすれば、
「誰かが持っていくから」。
トイレのタンクのフタが盗まれることもある。
昔はあったというシャワーヘッドは今は影も形もない。
おそらく誰かのアパートで活躍していることだろう。
シャワー室は、たとえシャワーヘッドがなくても汚くてもガス室みたいでも、
お湯が出れば天国である。
しかし、モスクワの水道設備は年に一度修理が必要で、市内の各地域を順番に回って修理していく。
その間、2~3週間は水しか出ない。
選択肢は二つ。
水を浴びるか、他の方法を考えるか。
私は一度、冷水シャワーを浴びて命の危険を感じ、やめた。
6月初旬とはいっても、モスクワはまだ寒い。
そこで、。持っている鍋を総動員してお湯を沸かし、わざわざ買った15リットルバケツに入れて
私が住んでいる5階から地下のシャワー室まで運び降ろし、水で割って使うことにした。
この時ほど、私の髪がベリーショートで良かったと思ったことはない。
さて、モスクワはクレムリンを中心として、各地方へつながる放射状道路と環状道路を組み合わせて
設計された都市なのだが、寮から市の中心部にある音楽院へ行くためには
必ずこの道路を渡らなければならない。
ここの信号は手動でなかなか変えてくれず、長いときには20分近く待つこともある。
200人はいそうな歩行者達が赤信号にもかかわらず、10車線の道路を一斉に渡り始める光景は、
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を通り越して、「民衆の力」という感じがする。
しかし憎まれるものの、この道路にも、1つだけメリットがある。遅刻の言い訳にも使えるのだ。
「信号が青に変わりませんでした」「トローリーバスが故障して動きませんでした」。
日本では通用しないこんな言い訳も、モスクワでは正当な理由となる。
1年生の私の今年のカリキュラムは、ロシア語、音楽史、レッスンが週に2回ずつ、
伴奏法、和声が1回ずつである。
授業、試験共、基本的には口述。
試験は一人ずつ、先生と一対一。
理解していないとすぐにバレてしまう怖いシステムだ。
日本式の丸暗記では通用しない。
記憶力よりも、理解力、構成力が重視されうのがロシア式である。
モスクワ音楽院のピアノ科は、ロシアは少数精鋭でレベルが高い。
レッスンでは初めての曲でも暗譜。
おまけに順番を待つ生徒達が後ろにズラッと並んで聴いているので、毎回緊張する。
それに比べて、伴奏法はとても和やかな雰囲気のレッスンだ。
「心をこめて、あなたが感じた通りに弾きなさい」
「そんなにテンポを揺らしてはいけません。
それではオペラの主人公がウオッカを飲んで酔っ払っているみたいに聞こえますよ。
ラフマニノフでさえも、心の中で拍子を数えていたんですから」
「ペダルはピアノの魂です」
日本語で言われたら聴きながしてしまいそうな言葉も、ロシア語だと心に響く。
レッスンにチャイコフスキーの四季を持っていったときには、とても細かく教えてもらった。
「楽譜には書かれていないが、これがロシアの伝統なんだ」
その先生の言葉に、伝統とはこうして受け継がれていくものなのか!
と、納得した。
レッスンだけではなく、コンサートもモスクワ生活の大きな楽しみだ。
たいていのコンサートには、学生証を見せるだけで入れるが、
世界的に有名な演奏家が来るとなると、学生証では無理なのはいうまでもなく、
チケットを買うのさえ大変である。
チケットがすぐに売りきれるからではない。
そういう演奏家のコンサートにはスポンサーがつくからなのだ。
モスクワでは、スポンサーがつく程、チケットの値段が上がる。
(というよりも、それだけスポンサーがついても値段が下げられない程、
演奏家のギャラが高いと言うべきか。)
物価の安いロシアで、チケットが日本並みに高くても買う人がいる。
音楽が好きというだけでなく、ステータスが入っているような・・・。
貧富の差を身をもって感じる瞬間だ。
生活の厳しさのためか、それとも気候の厳しさのためか、ロシア人の演奏が厳しく、そして暖かい。
音楽が近い。そして生きている。
日本では、音楽と生活は別物として存在しているが、ここでは、音楽と人生は切り離せない。
これが、ロシアで勉強する最大の魅力だた思う。
「モスクワの冬」というと「厳冬」というイメージがあったが、実はそうでもない。
というのは、ドゥブリョンカという冬用のコートを着るからなのだが、-10℃までは結構暖かい。
(建物の中は、セントラルヒーティングが常に入っているので、日本よりもはるかにすごしやすい)。
しかし、-20℃を超えると、頬はチクチク痛み、息を吸うと鼻の中は凍り、
自分の熱が奪われていきうのが分かる。
ただ外を歩いているだけで、「このままだと死ぬかも」と言う考えが頭をよぎるほどだ。
モスクワの冬空、ほとんど毎日灰色で、よく雪が降る。
青い空が好きな私は、たまに晴れる日があると、嬉しくてつい外へでかけたくなるのだが、
そういう日はめっぽう寒い。
友紀はある程度暖かくならないと降らないということを、モスクワへきて初めて知った。
観光客がロシアに来るのは主に夏。
旅行者にとって、寒さがこたえるのはよく分かるが、モスクワは冬の方が美しい。
夏にはけばけばしさしか感じないクレムリンやネギ坊主の寺院も、
雪のなかでは中和されて全く違う表情を見せる。
それを見ると、この文化は冬を基調をしているのだなと感じる。
あと忘れてならないのが、ロシアの食べ物。
和食が嫌いだった私は、初めてモスクワへ来たとき、
もうこれで白米や魚を食べなくていいということが嬉しくて、いろいろなものを試した。
白くてやわらかいチーズを乗せた黒パン。
ゆでた赤かぶにサワークリームをかけたサラダ。
ウォッカを飲みながらかじる塩漬けキュウリ。
どれも相性ものである。
ソーセージ、乳製品、お菓子等は、日本よりもはるかに種類が多い。
しかし、全種類を制覇する前に、どうしても日本食が恋しくなってしまったのである。
それからは、いかにロシアの食べ物を日本風に変えるかが問題になった。
ペリメニというギョウザのようなもの(本来はゆでる)を焼いて、
しょうゆとごま油とチリペッパーで食べたり、
塩漬けにしんをワインビネガーでしめて(しめさばのつもり)、ワサビしょうゆで食べたり、
日本酒の代わりに白ワインやウォッカを使って煮物を作ったり。
日本から遠くはなれて食べる和食は、精神安定剤である。
言葉がよく分からないと、勘違いしてヘンな食べ物を買ってくることも多い。
パスタと書いてあるのでパスタソースだと思い込んで買ってきたものがトマトペーストだったり
(ロシア語でパスタとはペーストを意味する)、
カレーを作るために買った鶏の手羽先が妙に大きいと思ったら実は七面鳥だったり、
レーズン入りのクリ-ムチーズだと思ったものが、レーズン入りの豆腐だったり
(ロシア語では豆腐を「大豆のチーズ」と言うが、当時の私は「大豆の」という単語を知らなかったので
「チーズ」という部分だけを見て買った)。
食べ物に限らず、こういう実践によって覚えた単語は絶対に忘れない。
こういった勘違いを毎日繰り返しながら、私はモスクワ生活2年目を過ごしている。
1年目は語学力よりも、何があっても動じないための度胸を身につけるだけで過ぎていった。
これまでに、自分にとって疑問をさしはさむ余地のなかった常識が見事に崩れていく中で、
自分がなぜそう考えるのか、相手はなぜそう考えないのかということを分析していくうちに
少しずつではあるが、日本という国の文化習慣を客観的に見られるようになってきていると思う。
卒業までのあと5年でどんな経験をしどう自分が変わっていくかが楽しみだ。
ただ一つ心配なのは、このロシアの大雑把さになれてしまった自分が、
日本の生活に戻れるかどうかである。
日本の音大を出てから、今度はモスクワ音楽院の試験をパスして(今、毎年日本で受験できるようです)
留学されている女性に今回執筆をお願いしました。
モスクワから届いたメッセージです。