「村を守った青年」
台湾南部の台南の町に、飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびよう)という、道教のお寺があります。「飛虎将軍」と地元の人々に慕われ、神様として祀られているのは、茨城県水戸市出身の杉浦茂峰(しげみね)さんです。
日本では無名の一青年が、台湾で神様になったわけをお話ししましょう。
昭和20(1945)年まで台湾は日本でしたから、先の大戦では、台湾にも米軍機がたびたび来襲しました。そのたびに、日本軍のパイロットたちもゼロ戦に乗って応戦しましたが、日米の戦力の差は大きく、しだいに日本軍は追い込まれていきます。
ある日、ゼロ戦が一機、アメリカのグラマンに撃たれました。ゼロ戦の損傷は激しく、地上から見ていても、墜落は免れないように思えました。けれども、搭乗機が撃たれただけで、パイロットは無事です。ここでパラシュートを開いて飛行機から脱出すれば、パイロットの命は助かるでしょう。
ところが、そのパイロットが脱出を試みることはありませんでした。撃たれた飛行機を操縦することは、とても困難なことだと思いますが、彼は、操縦桿を懸命に操作し、機首を上に向けました。
実は、ゼロ戦が撃たれたのは、集落の上空だったのです。当時の台湾の民家のほとんどは、屋根が藁葺きだったので、もし飛行機が墜落したら、あっという間に火災が広がり、多くの犠牲者が出るでしょう。彼は、それを何としても防ぎたかったのです。
パイロットの命がけの操縦で、ゼロ戦は、民家に墜落することは避けられました。
「ここまでくれば大丈夫」と、パイロットがようやく脱出を試みたそのとき……。撃たれた飛行機の逃げ足は遅く、追いついた敵機から放たれた銃弾が、今開いたばかりのパラシュートを射抜いたのです。
パイロットは地面にたたきつけられ、即死でした。
「あの人が、身を挺して私たちを守ってくれたんだ」
一部始終を地上から見ていた台湾の人々が現場に駆けつけ、遺留品から、パイロットの名を知ることとなります。
「杉浦茂峰」……命の恩人を、台湾の人々は決して忘れませんでした。そして、その恩に、最大級の感謝で応えたのです。彼を神様として祀り、朝は「君が代」、夕方になると「海ゆかば」を毎日歌い、杉浦さんの御霊を慰めてくれています。戦後70年経った今も、です。
以下は、私(白駒さん)が飛虎将軍廟について、数十人の小学生の前で話したときのことです。
ほとんどの子が目を真っ赤にし、教室の片隅からは、すすり泣く声が聞こえてきました。そんな中、ある一人の男の子の泣き方が、ちょっと普通ではなかったので、気になって、声を掛けたんです。
泣きながら、途切れ途切れではありましたが、彼は正直な気持ちを打ち明けてくれました。
「僕は杉浦さんの話を聞いて、とても感動しました。でも、もし僕が杉浦さんの立場なら、自分を犠牲にして誰かを助けるなんて、きっとできなかったと思います。感動はしたけど、僕は杉浦さんのようには行動できません。僕は自分が情けないです」
私は、目の前の男の子が愛おしくてたまらなくなりました。抱きしめたくなるのをぐっとこらえ、こう伝えました。
「同じことなんて、できなくていいんだよ。今は時代が違うんだもん。杉浦さんの時代とは、背負っているものが違うんだから、誰かのために自分が死ぬなんて、考えなくていいの。
でもね、君は杉浦さんの話を知って、こういう生き方が〝美しい″と思ったんだよね? その気持ちが大切なんだよ。同じ話を聞いても、中には、誰かを助けるために死ぬことを、〝犬死″と思う人もいるかもしれない。でも、君は杉浦さんに感動したんだよね?
何を美しいと感じるのか、そのセンサーを〝感性″と呼ぶんだけど、君の感性は、本当に素敵だよ。だからその感性を、これからも大切に大切に育てていってね」
このような自己犠牲の精神を、美しいもの、尊いものとする日本人の感性は、昔も今も変わらないのではないでしょうか。日本人が歴史の中で育んできた美意識が、確かに現代に受け継がれている……。そのことを、泣きじゃくった小学生の姿が証明しているような気がしました。
時代が変われば、美意識をどう表現するか、その表面に表れる部分は、当然変わってくるでしょう。でも、何をもって「美しい」と感じるのか、その基準は、実は変わっていないのかもしれません。その美意識が継承されるかぎり、きっとこの国は大丈夫だと思います。
この文章は、白駒妃登美さんの最新刊「子どもの心に火を灯す日本の偉人の物語」から引用ました。日本人のすばらしい生き方を「15の偉人の物語」として収められています。とても素敵な本です。まずお父さんやお母さんに読んでほしいです。そしてお子さんが読んだときに、一緒に物語の内容について話し合われたら、いい会話ができるんじゃないかと思います。お勧めします。
引用ブログ「村を守った青年」