豊かなのは誰?
ある日、大変にお金持ちの家の父親が、息子を田舎へ連れて行きました。
息子に、人々が実際にどれほど貧しくなれるものかを見せようと思ったのです。
父親と息子は、田舎の大変に貧しい農家で数日を過ごしました。
田舎から帰る道中、父親は息子に「どうだった?」と尋ねました。
「とってもよかったよ、お父さん」
「人々がどんなに貧しくなれるものか、わかったかい?」父親が聞きました。
「そうだね」と息子は答えました。
「おまえはこの旅で何がわかったんだい?」
父親が聞きます。息子はこう答えました。
「僕たちの家には犬が1匹しかいなけど、
あの農家には4匹いたよ」
「僕たちの家には、庭の真ん中までのプールがあるけど、
彼らにはどこまでも続く川があるんだね」
「僕たちは輸入したランタンを庭に下げているけど、
彼らには夜、星があるんだね」
「僕たちは、小さな地面に住んでるけど、
彼らの住んでいるところは見えないぐらい遠くまで広がっているんだね」
「僕たちには、僕たちに奉仕する召使いがいるけど、
彼らは他の人々に奉仕しているんだね」
「僕たちは自分たちの食べ物を買うけど、
彼らは自分たちの食べ物を育てているんだね」
「僕たちの家のぐるりには、僕たちを守るための壁があるけど、
彼らには守ってくれる友だちがいるんだね」
息子の返事に、父親は言葉を失いました。そして、息子はこういいました。
「お父さん、僕たちがどんなに貧しいかを見せてくれてありがとう」
私たちは、自分が持っているものを忘れて、
自分が持っていないものばかりを気にしてしまいます。
ある人にとってはどうでもいいものが、
別の人にとってはなくてはならないものである事もあります。
これはすべてそれぞれのものの見方に依っているのです。
もし私たち全員が、「もっと欲しい、もっと欲しい」とイライラするのではなく、
与えられたものの恵みに感謝するようになったら…?と思いませんか。
毎日毎日、私たちに与えられてるものすべてを喜びたいですね。
特に友だちを。
かすが幼稚園の米川園長先生からメールでいただいた文を、許可をいただきそのまま転載させていただきました。「世界がもし100人の村だったら・・・」と同じく、出典不明のメールで広がっているようです。
私は最近気づきました。
100人村もこの文もすべて、「他人と比較して」自分が幸せなのかどうかの判断をしています。
しかし、本当の幸せとは、他人がどうだからということとは関係なしに、自分の基準で幸せなのかどうかを判断するのが、さらにすすんだ考え方ではないかと思うようになりました。
それを一番良く表現している言葉があります。
大リーグで活躍しているイチロー選手の言葉です。
首位打者が取れるかどうか、記録争いをしている最中での新聞記者のインタビューに対して
イチロー選手はこうコメントしていました。
「他人の絡むものを気にしても仕方がない」
つまり、自分は年初に立てた自分の目標数字に向かって進んでいるだけで
他人が絡んで競争するという記録にはまったく関心がない、ということです。
「競争」というのは、まだまだ次元の低いレベルの行動であるように思います。
他人と比較した成績は、他人の成績の如何によって変化します。
しかし、自分という基準のなかでの目標に向かっての努力は、まったく他からの影響を受けません。
自分の目標が達成できたかどうかが、一番大切なのです。
自分が幸せかどうかという基準も、「他人に比べて」という基準を持てばそれは
「自己満足」の世界にしかありません・・・。
「100人村」や「豊なのは誰?」という基準以上に、すべて自分がどう感じているかという基準で
生きていければ、もっと素晴らしいのではないかと思います。