弔 辞
縁とは不思議なものです。
ぴあの屋ドットコムの掲示板で出会った東京の方とお会いすることを機会がありました。
彼は、わざわざ私に会うために京都までお越しくださったのです。
その方は、音楽・天文がお好きで私と考え方がとても良く似ていて、
その方が掲示板に投稿した特攻隊に関する書き込みを「心の窓」に掲載させていただいたり、
私がピアノとともに行っている共済事業の仕事もされることになったり、
交流がますます深まってまいりました。
そんなある日、その方のお父さんが実家の九州を直撃した台風が原因で、急死されました。
お父さんは大工さん。
いつも台風の過ぎた後は、修理の依頼で電話が鳴り止みません。
困ったときには助けるのがあたりまえだ、とすべて無料で
いつも修理に駆け回っておられたそうです。
そして、今回の超大型台風の修理の途中、屋根の上で突然
倒れられました。
台風が来たときは、気圧が極端に下がり突然死が多発するそうです。
長男である彼は、そのお葬式で決まりきった弔辞ではなく、
自分のことばで語ろうと思いました。
そして、その内容を私にも見せてくれました。
私は感動で涙があふれました。
是非皆さんにも読んでいただきたいと思い、ここに許可をいただいて
転載させていただきます。
お別れの言葉
お父さん、Tです。帰ってきましたよ。僕の声が聞こえますか?
まさかこんな形であなたと再会することになろうとは、
ほんの一昨日の朝まで夢にも思っていませんでした。
弟から連絡を受け、落ち着かない気持ちで身の回りの整理をし、
急いで羽田空港へと向かいました。
電車の乗り継ぎが悪く直行便に乗りそこなったため、
少しでも早くあなたのいる場所へ近づきたいと思い、
福岡便に乗って帰ってきました。
機中、窓から見えるのは一面の雲海でした。
その中を西の方に沈もうとしている太陽が顔を覗かせ、
空を茜色に染めていました。
そのときふとお父さん、あなたが今いる場所はこんなところなのかな、
と思ったら頬を涙が伝いました。
聞けば台風の翌日、
朝から鳴りっぱなしになるお客さんからの電話に応えて、
何件ものお宅を回っている最中でのことだったとか。
いつものように屋根に上がったまま気分が悪くなって倒れたきり、
向こうへ行ってしまったんだそうですね。
中学を卒業して以来48年、大工一筋に愚直に生きてきた人生。
人生最期の場所が屋根の上だったとはいかにもお父さん、
あなたらしいと思うし、
「生涯現役」という言い方をするなら正に文字通り
「生涯現役」を貫き通した人生だったんだろうけど、
たった63歳で向こうへ行くというのはちょっと早すぎるんじゃありませんか?
大学進学のために東京へ出て行ったっきりなかなか帰って来ない息子のことを、
あなたはずっと信頼し、励まし、支え続けてくれました。
東京生活に区切りをつけ、来年にも地元に帰ってくることを決め、
これからいよいよ親孝行ができる、
今までの親不孝分の何倍も親孝行をしてあなたに恩返しをしようと
僕自身、楽しみにしていた矢先の出来事でした。
今は男でも人生80年時代。
人並み外れて元気にバリバリと仕事をこなしてきたあなたのことですから、
いくら少なくともあと10年やそこらは元気でいてくれるものと思っていました。
その間に、今まで働き詰めできたあなたに僕は、
ありったけの親孝行をするつもりでした。
それがこんな形であっけなくお別れをしなければならなくなったとは。
今でもなにか信じられないし、無念です。
「親孝行、したいときには親はなし」とはよく聞く言葉ですが、
まさか自分がそうなってしまおうとは。残念で残念で仕方がありません。
うちに帰ってきてあなたと対面しました。
いつも通りの顔をして横になっていました。
血色もよく、まるでちょっと昼寝でもしてるんじゃないかと思うような
顔をしていましたよ。
今にも起きだして「さて、行っちくるか」とでも言いそうな顔をしていました。
何もいらない。何も欲しくない。
ただもう一度起き上がって、いつもの少し甲高い声で「T」と
僕の名前を呼んでくれませんか?
納棺のとき、僕はあなたの右手を拭きました。
ゴツゴツしたグローブのように大きな手が僕は大好きでした。
仕事中に倒れたため、手は汚れたままでした。
爪の間には泥がはさまったままでした。
ゆっくりと拭いている間に左手はずいぶんほぐれてきたようですが、
僕が拭いていた右手はまるで何かを握っているかのように、
なかなか柔らかくはなりませんでした。
きっとまだまだ仕事がしたかったんでしょうね。
この手で鋸や鑿、金鎚や鉋をいつも握っていたんですよね。
生まれたばかりの僕を抱き上げてくれたのも、
お祭りで肩車してくれたのもこの手だったんですよね。
もしかするとお父さん、
この状況に一番驚いているのはあなた自身かもしれませんね。
人の死には二種類あると聞きます。一つは「生物としての死」。
もう一つは「存在としての死」。
ヒトという生物としてのあなたは確かに死んでしまいましたが、
あなたを覚えてくれている人が
この世にたった一人でも残っている限り、
あなたは生き続けています。
僕の、お母さんの、弟の、Aちゃんの、TUくんの、親戚の人たちの。
そして、あなたと縁があった多くの人の心の中に、
あなたは生き続けているのです。
僕は幸せです。
地元を中心にして、僕はあなたと縁のあった多くの方々から、
あなたの想い出話を聞くことができます。
街を歩けば、あなたが遺したたくさんの仕事と対面することができます。
大工の仕事というのは人々のもっとも基本的な
生活基盤を支える家を造る仕事であると同時に、
街の風景の一部を創ってゆく仕事でもあります。
街の日常に溶け込む作品を数多く遺してくれたおかげで、
僕は寂しい思いをせずにあなたを思い出すことができます。
お父さん、ありがとう、ありがとう、ありがとう。
僕の父親になってくれてありがとう。
まだしばらくは時間があるだろうけど、いずれは僕もそっちに行きます。
そのときはこっちで話し残した分、
お茶でも飲みながらまたゆっくり話そうね。
そしてもしまたこの世に生まれてくる機会が与えられたときには、
もう一度、僕の父親になってください。
お父さん、もうKちゃんやKIおいちゃんに会いましたか?
あなたがいる場所はどんなところですか?
あなたという太く大きい大黒柱が抜けてしまって、
すっかり頼りない家になってしまった僕たちのことを、
どうか遠い僕がまだ知らない場所から見守っていてください。
そして、僕たち家族の進むべき道を、遠くまで明るく照らしてください。
いつまでもいつまでも、僕たちを導いてください。
お父さん、僕はあなたの子どもで良かった。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
感謝の言葉しかありません。
どうぞ安らかに。さようなら。。。
2005年9月 O・T
彼のお父さんの葬儀には、家族がびっくりするほどの、
ものすごい行列ができたそうです。
新聞に載ったわけでもなく、心から最後のお別れが言いたかった方ばかりだそうです。
普通の大工さんとして地元の人たちのために働いてきただけです。
そんなお父さんの葬儀に長蛇の列。。。
人は最後の瞬間に、生きてきた証がわかるのかもしれません。
また、次のような話も彼から聞きました。
「お父さん、○○さんのところの仕事、出来上がってからもう何ヶ月にもなるんやけん
請求書、早く書いてよ」とお母さんが言っても、
「まだいいんじゃ」と言って書こうとしないんです。
なんか請求書を持って行くのが悪いとでも思ってたんですかね。
出入りの業者さんへの支払いをしないといけないので、
棟梁が集金してくれないことには困るんです(笑)。
あんまり放っておくものだから、逆にお客さんの方から
「早く請求書を持ってきて」と催促の電話がかかってくるのもしばしばでした。。。
それから、親父はいつもこんなことを言っていました。
「ほとんどの人にとって家を建てるのは人生でたった一度のこと。
それも、一生懸命に働いてもらってくる給料の中からご飯を食べて、
残ったお金で家を建てるんだ。
何十年と会社に勤めて退職するときの退職金をまるごとつぎ込む人もいる。
それはみんな、お父さんのことを信用してそんな大事なお金を任せてくれるんだ。
だから、絶対にいい加減な仕事は出来ないんだ」。
石山さんが「心の窓」の中で、自分がやっていることはいつも神様が見ている、と思っている
と書かれていますが、親父もまさにそういう気持ちでいつも仕事をやっていたんでしょうね。。。
お父様が亡くなってから、彼に再び会いました。
上記のような話を聞いて、また涙がこぼれました。
請求書をなかなか書かなくても
自分のした仕事に喜んでくれたら、ちゃんと払ってくれる、と
お父様は信じておられたからでしょうし、
台風の後に、町中を走り回って屋根の修理をしていた姿からも分かるように、
ただ、お父さんの心のなかに世のため、人のため、
という気持ちが普通の人よりも強かったことがわかります。
多くの方に慕われ、喜ばれる生き方をした彼のお父さんは、お国替えをしても、
またそこで「ありがとう」といわれる生き方をされることでしょね。
私もきっとこういう生き方をするために生まれてきているはずだ、と思いました。
だから。。。実践ですね。