モンロビア行きの列車
終戦直後、ある日本人女子学生がアメリカのニューヨークに留学しました。
戦争が終わって間がありませんでしたので日本人は差別を受け、また食糧事情も大変悪く栄養失調で肺結核にかかってしまいました。その頃はまだ結核は治療法が確立されておらず、死の病といわれていました。
病院で診察を受けたところ、ロサンゼルスの山の中のモンロビアという所に、とても良い療養所がありますからそこへ行きなさい、といわれましたが、大陸横断鉄道で5日間程かかります。彼女はそんな長距離を旅するお金なんかありませんでした。
でも死ぬよりはましだと、彼女は恥をしのんで事情を留学生仲間に打ち明けとところ、友人達は快く列車代をカンパしてくれました。しかし、食料も5日分必要なのにやっと集められたのが3日分でした。彼女は日本に連絡を取り、治療費はあとで日本から送ると言う約束をして大陸横断鉄道の特急に飛び乗りました。
発熱と嘔吐を続けながら旅を続け、なかなか食べ物ものどを通りませんでしたが、それでも3日目で食料が尽きてしまいました。
最後のお金をかきあつめて車掌にジュースを頼んだところ、車掌は顔を覗き込んで、あなたは重病のようだがどこまでいくんだね、と尋ねました。留学生は、自分は結核で死ぬかもしれないが、モンロビアの療養所に行ってなんとか助かりたい、と話ました。
車掌は、お金はいらないからジュースを飲んで早く元気になりなさい、と言いました。
そして4日目の朝、頼んでもいないのに、これは私からあなたへのお見舞いだから何も心配しなくていい、といってその車掌がジュースとサンドイッチを持ってきてくれました。
4日目の夕方に車内放送が流れました。
「乗客の皆様、この列車に日本人の女子留学生が乗っています。彼女は重病です。本部に連絡し、モンロビア駅で臨時停車することになりました。明日の朝1番にこの列車が停車するのはロサンゼルス駅ではありません。彼女の為にモンロビア駅に臨時停車いたします」。
すぐに車掌が彼女の元にきて、いま言ったとおりだから安心しなさい、といってデッキに荷物を運んでくれました。
翌朝、列車は夜明けとともにモンロビア駅に臨時停車しましたが、なんとそこにはもう車椅子と医師と看護婦さんが待機していたのです。車掌は本部と何度もやり取りをしたのでしょう、そこまで配慮してくれていたのです。
そして車椅子に乗せられて行こうとしたら、列車の方がざわついています。彼女はなんだろうと思って振り向くと、一等、二等のすべての窓が開いていてアメリカ人の乗客が身を乗り出し、住所や電話番号を書いた紙切れやドル紙幣に名刺をはさんで紙ふぶきのように投げてきたのです。
「困ったことがあったら私の住所に手紙を書きなさい」
「あなたが早く良くなるようにこの列車の全員が祈っているから大丈夫だ」
という暖かい言葉とともにそれが舞って来ました。彼女はすぐ近くに止まっているはずの列車が、もう涙で見えなくなってしまいました。
それから彼女はすぐ治療を受けましたが、退院まで3年間かかりました。
その間、毎週のように見舞い客が来てくれましたが、それもあのときの列車の乗客でした。
そして、退院の時、清算に行くと3年間の膨大な入院費と手術費は、その乗客の一人が匿名で支払って帰ったあとだったのです。
これはある住職さんのお話で知りましたが、アメリカで本当にあった実話です。終戦直後でしたので日本人に恨みをもっていた人もいたかもしれません。でも人種を超えて、人として、なんとかあの女性を助けたい、自分にできることをしてやりたいと、車掌を始め多くの人が手をさしのべてくれたのです。これがボランティアの原点ではないかと私は思います。
アメリカのある地方の小さな飛行場での出来事です。
飛行機が飛び立つ寸前、客室乗務員が座席についた客席にむかって言いました。
「今、お客様の親が危篤になり、親の元に駆けつけるために飛行機に乗りたいのですが、今日はすべて満席なのです。その人はターミナルにいます。どなたか席を譲ってもらえないでしょうか?」
その声を聞くや否や、数人が「ボランティア!」と手を挙げて叫び、席を譲ろうというのです。
ボランティアというのは、なにか特別のことをするという印象を持っている方も多いかもしれませんが、そうではありません。
自分にできることがあればやろう、それで人が喜んでくれるのであれば、進んで自分がやるということです。
それに見返りはありません。
どんなささいなことでも、人のために何かやろうという気持ちがボランティアであり、そのような心を持つ人が増えてきたときに、世界が良い方向へ変わっていくのではないかと私は思います。
ぴあの屋ドットコム 石山