心の窓」カテゴリーアーカイブ

心の窓 「ファミレスに行きたい」

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「ファミレスに行きたい」

ある4人家族がいました。
30代の夫婦と2人の兄弟。
1人は10歳、1人は8歳でした。

ごく平凡な家族なのですが、
10歳のお兄ちゃんは、
重度の食物アレルギーを持っていて、
食べ物も好きに食べられない
という状態でした。

そんなある日、弟が学校で
いじめられて帰ってきました。
母親は驚いて理由を聞くと
「僕だけファミレスに行ったことが
ないからって仲間外れにされた」
と弟は言いました。

実はお兄ちゃんの食物アレルギーのため、
弟はファミレスどころか、
外食もしたことがない、
という状況でした。
それを聞いてショックを受けた母親は、
父親と相談して、弟を1度ファミレスに
連れて行くことに決めました。

そして、ある日家族4人で
ファミレスに行き、席に着きました。
すぐに店員が注文を取りにきました。

母親は店員に、
「日替わりランチ2つと
お子様ランチを1つ下さい。」
と頼みました。

すると店員は、
「お子様ランチ1つですか?」
と尋ねました。

母親は
「はい、1つでお願いします。
下の子がファミレスに行ったことがないと
クラスでからかわれてしまって…。
一度ぐらい連れてきてあげても
いいんじゃないかって思って
連れてきたんです。
と言うのも、
上の子が食物アレルギーで
食べるものも制限されているんです…。
それでも子供たちには、
できるだけ不自由な思いはさせたくない
と思って連れてきました。
さらに失礼なお願いなのですが、
上の子には家から持ってきた、
これをここで食べさせても
かまわないでしょうか?」

と、母親はかばんから
食材の入ったタッパーを取り出しました。
当然ファミレスに食べ物を持ち込む
ということは、食中毒などの店側の
衛生管理上の問題により、
本当はダメだということは
母親にもわかっていました。

ここで断られたらどうしようかと、
母親はひそかに思っていたのです。

店員は、
「そうですか…。」
というと、
「私にそのタッパーを渡してください。」
と母親に言いました。

母親は、「えっ」と思い、
やっぱりダメか…、
と落胆しながら
店員にタッパーを渡しました。

しばらくして
両親が頼んだ日替わりランチと、
国旗が付いている
弟のお子様ランチが出てきました。

弟は喜んでいますが、
両親は素直に喜べませんでした。
ですが、次の瞬間、
もうひとつの料理が出てきたのです。

それはまぎれも無く、
あのタッパーの中の料理でした。
綺麗に盛り付けされ、
真ん中には国旗が付いています。
「はい、これがお兄ちゃんの
お子様ランチだよ。」

その店員の思いがけない言葉と
嬉しそうに喜んでいる兄弟の姿を見て、
両親は涙が止まりませんでした・・・


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心の窓 「余命3ヶ月のお母さん」

6

僕が看取った患者さんに

スキルス胃がんに罹った

女性の方がいました。
 
 
余命3か月と診断され

彼女は諏訪中央病院の

緩和ケア病棟にやってきました。
 
 
ある日、病室のベランダで

お茶を飲みながら話していると

彼女がこう言ったんです。
 
 
「先生、助からないのは
 
 もう分かっています。
 
 
 だけど、少しだけ

 長生きをさせてください」
 
 
彼女はその時、42歳ですからね。
 
 
そりゃそうだろうなと

思いながらも返事に困って

黙ってお茶を飲みました。
 
 
すると彼女が
 
 
「子供がいる。
 
 
 子供の卒業式まで生きたい。
 
 
 卒業式を母親として見てあげたい」
 
 
と言うんです。
 
 
9月のことでした。
 
 
彼女はあと3か月

12月くらいまでしか生きられない。
 
 
でも私は春まで生きて

子供の卒業式を見てあげたいと。
 
 
子供のためにという想いが

何かを変えたんだと思います。
 
 
奇跡は起きました。
 
 
春まで生きて卒業式に出席できたのです。
 
 
こうしたことは科学的にも立証されていて

例えば希望を持って生きている人のほうが

がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が

活性化するという研究も発表されています。
 
 
おそらく彼女の場合も

希望が体の中にある見えない3つのシステム

内分泌、自律神経、免疫を

活性化させたのではないかと思います。
  
 
さらに不思議なことが起きました。

彼女には2人のお子さんがいます。
 
 
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。
 
 
せめて上の子の卒業式までは

生かしてあげたいと

僕たちは思っていました。
 
 
でも彼女は余命3か月と言われてから

1年8か月も生きて

2人のお子さんの卒業式を

見てあげることができたんです。
  
 
そして、1か月ほどして亡くなりました。
 
 
彼女が亡くなった後

娘さんが僕のところへやってきて

びっくりするような話をしてくれたんです。
  
 
僕たち医師は

子供のために生きたいと言っている

彼女の気持ちを大事にしようと思い

彼女の体調が少しよくなると

外出許可を出していました。
 
 
「母は家に帰ってくるたびに

 私たちにお弁当を作ってくれました」
  
 
と娘さんは言いました。
 
 
彼女が最後の最後に家へ帰った時

もうその時は立つこともできない状態です。
 
 
病院の皆が引き留めたんだけど

どうしても行きたいと。
 
 
そこで僕は
 
 
「じゃあ、家に布団を敷いて

 家の空気だけ吸ったら

 戻っていらっしゃい」
 
 
と言って送り出しました。
 

ところがその日

彼女は家で台所に立ちました。
 
 
立てるはずのない者が

最後の力を振り絞って

お弁当を作るんですよ。
 
 
その時のことを娘さんは

このように話してくれました。
  
 
「お母さんが最後に

 作ってくれたお弁当はおむすびでした。
 
 
 そのおむすびを持って

 学校に行きました。
 
 
 久しぶりのお弁当が

 嬉しくて、嬉しくて…
 
 
 昼の時間になって

 お弁当を広げて食べようと思ったら

 切なくて、切なくて…

 なかなか手に取ることができませんでした」
  
 
お母さんの人生は40年ちょっと

とても短い命でした。
  
 
でも、命は長さじゃないんですね。
 
 
お母さんはお母さんなりに

精いっぱい必死に生きて

大切なことを子供たちに

ちゃんとバトンタッチした。
 
 
『致知』2012月7月号より 鎌田 實 「誰かのために・・・」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

人間は「誰かのために」と
思った時に希望が生まれ
その希望を持つことによって
免疫力が高まり生きる力が
湧いてくるのではないかと思います。

ぜひ、あなたの大切な人のために
どんな些細のことでも良いので
何かできることをしてあげて下さい。

その行動がきっとあなたにも
元気を与えてくれるはずです。
 
このお話が多くの人に届く事を願いします。

以上こちらのサイトから転載させていただきました。→http://iinee-news.com/post-8154/


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心の窓 「村を守った青年」

「村を守った青年」

台湾南部の台南の町に、飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびよう)という、道教のお寺があります。「飛虎将軍」と地元の人々に慕われ、神様として祀られているのは、茨城県水戸市出身の杉浦茂峰(しげみね)さんです。
日本では無名の一青年が、台湾で神様になったわけをお話ししましょう。

昭和20(1945)年まで台湾は日本でしたから、先の大戦では、台湾にも米軍機がたびたび来襲しました。そのたびに、日本軍のパイロットたちもゼロ戦に乗って応戦しましたが、日米の戦力の差は大きく、しだいに日本軍は追い込まれていきます。

ある日、ゼロ戦が一機、アメリカのグラマンに撃たれました。ゼロ戦の損傷は激しく、地上から見ていても、墜落は免れないように思えました。けれども、搭乗機が撃たれただけで、パイロットは無事です。ここでパラシュートを開いて飛行機から脱出すれば、パイロットの命は助かるでしょう。

ところが、そのパイロットが脱出を試みることはありませんでした。撃たれた飛行機を操縦することは、とても困難なことだと思いますが、彼は、操縦桿を懸命に操作し、機首を上に向けました。

実は、ゼロ戦が撃たれたのは、集落の上空だったのです。当時の台湾の民家のほとんどは、屋根が藁葺きだったので、もし飛行機が墜落したら、あっという間に火災が広がり、多くの犠牲者が出るでしょう。彼は、それを何としても防ぎたかったのです。

パイロットの命がけの操縦で、ゼロ戦は、民家に墜落することは避けられました。
「ここまでくれば大丈夫」と、パイロットがようやく脱出を試みたそのとき……。撃たれた飛行機の逃げ足は遅く、追いついた敵機から放たれた銃弾が、今開いたばかりのパラシュートを射抜いたのです。

パイロットは地面にたたきつけられ、即死でした。
「あの人が、身を挺して私たちを守ってくれたんだ」
一部始終を地上から見ていた台湾の人々が現場に駆けつけ、遺留品から、パイロットの名を知ることとなります。

「杉浦茂峰」……命の恩人を、台湾の人々は決して忘れませんでした。そして、その恩に、最大級の感謝で応えたのです。彼を神様として祀り、朝は「君が代」、夕方になると「海ゆかば」を毎日歌い、杉浦さんの御霊を慰めてくれています。戦後70年経った今も、です。

以下は、私(白駒さん)が飛虎将軍廟について、数十人の小学生の前で話したときのことです。
ほとんどの子が目を真っ赤にし、教室の片隅からは、すすり泣く声が聞こえてきました。そんな中、ある一人の男の子の泣き方が、ちょっと普通ではなかったので、気になって、声を掛けたんです。

泣きながら、途切れ途切れではありましたが、彼は正直な気持ちを打ち明けてくれました。
「僕は杉浦さんの話を聞いて、とても感動しました。でも、もし僕が杉浦さんの立場なら、自分を犠牲にして誰かを助けるなんて、きっとできなかったと思います。感動はしたけど、僕は杉浦さんのようには行動できません。僕は自分が情けないです」

私は、目の前の男の子が愛おしくてたまらなくなりました。抱きしめたくなるのをぐっとこらえ、こう伝えました。
「同じことなんて、できなくていいんだよ。今は時代が違うんだもん。杉浦さんの時代とは、背負っているものが違うんだから、誰かのために自分が死ぬなんて、考えなくていいの。

でもね、君は杉浦さんの話を知って、こういう生き方が〝美しい″と思ったんだよね? その気持ちが大切なんだよ。同じ話を聞いても、中には、誰かを助けるために死ぬことを、〝犬死″と思う人もいるかもしれない。でも、君は杉浦さんに感動したんだよね?

何を美しいと感じるのか、そのセンサーを〝感性″と呼ぶんだけど、君の感性は、本当に素敵だよ。だからその感性を、これからも大切に大切に育てていってね」

このような自己犠牲の精神を、美しいもの、尊いものとする日本人の感性は、昔も今も変わらないのではないでしょうか。日本人が歴史の中で育んできた美意識が、確かに現代に受け継がれている……。そのことを、泣きじゃくった小学生の姿が証明しているような気がしました。

時代が変われば、美意識をどう表現するか、その表面に表れる部分は、当然変わってくるでしょう。でも、何をもって「美しい」と感じるのか、その基準は、実は変わっていないのかもしれません。その美意識が継承されるかぎり、きっとこの国は大丈夫だと思います。

この文章は、白駒妃登美さんの最新刊「子どもの心に火を灯す日本の偉人の物語」から引用ました。日本人のすばらしい生き方を「15の偉人の物語」として収められています。とても素敵な本です。まずお父さんやお母さんに読んでほしいです。そしてお子さんが読んだときに、一緒に物語の内容について話し合われたら、いい会話ができるんじゃないかと思います。お勧めします。

引用ブログ「村を守った青年


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心の窓 「お母さんからのプレゼント」

あるコラムからご紹介します

私には二人の息子がいます。長男(太郎)は3歳半、次男(次郎)は1歳です。
最近長男が、『ごはん食べたくない!!たろう、おかし食べる!』と、ろくに食事をしないで間食ばかりしてしまうのです。

その日もいつものように私と長男、次男の3人で夕食をとっていました。手がかかる次男の近くに私が座って、困惑しながらも手づかみ食べを見守っています。すると、玄関のドアが開き、パパ(主人)が帰ってきました。平日の子供たちの食事の時間に帰れることはとても珍しいので、子供たちは大はしゃぎでした。

しばらくして、ごはんをまだ全体の2割も食べていないうちに、いつものように長男が
『もうおなかいっぱーい!アイスにしよ!』と言いました。
私は、こう言われることに慣れてしまっていたのと、次男がまき散らかすお米や汁物の処理に気を取られていて、この発言をあまり深く受け止めてあげられませんでした。

そこで主人がゆっくりと立ち上がり、ソファへ移動してから長男を呼びました。
『太郎、パパの膝に座って。少し話そう。』
アイスを食べたくて仕方のない長男は、アイスを取って行こうとしたのですが、主人はそれをさせませんでした。

長男はいまアイスを食べさせてもらえないことに癇癪をおこし怒って泣いて、主人の膝に乗るまで時間がかかりましたが、やがて長男と主人は向かい合って目を見て話し始めました。私はといえば(ごはんを食べないのを怒ってくれるのかな)と、内心にやにや。

パパ『太郎、よくママにプレゼント作ってあげるよね?』

太郎『うん、今日もね、お花とって、かみでつつんで、あげたの』

パパ『ママ、なんて言った?』

太郎『ママ、うれしいっていった。そこにかざってあるよ!』
と一輪ざしを指さして。

パパ『じゃあね、ママが、太郎のプレゼントなんかいらない、こんなお花じゃなくて他のがいいって言ったらどんな気持ち?』

太郎『・・・(ショックを受けて)いやだあ』

口がへの字に曲がって、まぶたから顔全体が真っ赤になって涙が溢れてきました。もともとご機嫌ナナメなことも要因ですが、この会話だけで本気で傷つき、ショックを受ける子供の想像力はすごい。

パパ『ママが毎日作ってくれるご飯はね、お前へのプレゼントなんだよ。太郎が喜んでくれると思って、嬉しい気持ちで作ってるんだ。それは、お前がママのためにお花をつんでいるときの気持ちと同じだね。』

太郎『うん。。(泣いている)』

パパ『ママはね、お前のために一生懸命作ったプレゼントを、いらないって言われて毎日自分で捨ててるんだよ。どんな気持ちかな。』

太郎は大きな声で泣きました。ごめんなさいママ~と言いながら、泣きました。
主人の言葉、向かい合う姿勢、プレゼントという言葉。全てが、長男に染み込んでいくのがわかりました。

しかし長男は泣きながらこうも言いました。
『ママといっしょにたべたかったんだもんー、あちゅまれしてほしいんだもんー』
今度はこれが私に刺さりました。

正直、毎日の食事では次男にばかり気を取られていました。ごはんをこぼすしまき散らすからといって、自分はほとんど座らず片付けてばかり、ゆっくり食べることもなかった。『お兄ちゃんは自分で食べられるから偉いね』という本意は『1人でしっかり食べてね』だったのかもしれない。

次男も一緒に食事をするようになってから、そういえば長男は『あちゅまれして』と言わなくなった。『あつまれ』とは、お皿に散在しているご飯をスプーンでかき集めること。昔はよく言ってたけど、成長したんだなあなんて勝手に思っていました。でも違った。ママこそ本当にごめんなさい。ごはんを食べなくなってしまったのには、とても大きな理由があったんだね。どんなに凝ったご飯より、ママがきみを想って、ちゃんと一緒に食べることが一番のプレゼントになるんだね。長男は『あつまれ』をしてほしかったんだ。3人でいるのに、ひとりぼっちを感じていたんだ。と気付けたのです。

それから私は長男とのご飯が楽しみになりました。『ママのぷれじぇんとぜーんぶピカリン(残さずキレイに食べること)しちゃうもんね~』とはりきってくれています。

普段はほとんど家にいない主人ですが、彼もこうして大きなプレゼントをくれます。家族のことをよく見てくれている、それが本当にありがたいし、一番効果的な育児をしてくれていると思います。おむつを替えるよりミルクをつくるより、ずっとね。


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心の窓 「Good-Bye Wave」

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「Good-Bye Wave」

「出発前の飛行機に手を振るライン整備士の姿に憧れて……」と言って入社してくる整備士は少なくありません。

今でこそ整備士が手を振りながらお客様を見送る光景は当たり前となっていますが、もともとは、一人のANA整備士の「お客様への想い」からであったことをご存じでしょうか。

それはまだB(ボーイング)737型機が飛び始めた(1973年)頃のお話です。

この頃、ライン整備士(飛行機が到着し次に出発する間に必要なチェックをして、飛行機の安全を確認し承認する人)は、飛行機が自走するとすぐに事務所に戻ってしまうことがほとんどでした。

たまに、運行乗務員(パイロット)に「いってらっしゃい」と手を振って見送る人もいたようですが、出発する飛行機に対して手を振っている整備士はいませんでした。

そんなある日のこと。

沖縄空港支店整備課に配属されたK君は、先輩整備士Mさんがいつも出発する飛行機に向かって最後まで手を振っていることに気づきました。

そこで、「Mさんはどうしていつも出発する飛行機に手を振っているんですか?」と聞いたのです。

するとMさんは次のように答えました。

「おう。あれか。あれはな、俺、もともと沖縄の出身なんだよ。

だから、お客様がこんな遠い沖縄まで高いお金を出して、青い海と輝く太陽を楽しみに来てくれて、ありがたいなって思うし、真っ黒に日焼けして帰っていく姿を見ると『よかったですね、来たかいがありましたね』って、思ってうれしくなる。

反対に、台風や雨の日が続いてしまって、真っ白い肌のまま帰っていくお客様を見ると申し訳なくて、『ぜひもう一度、すばらしい沖縄を見に来てください』って、思う。

だから、楽しく過ごしてくださった方はもちろん、ちょっと残念な思いをした方にも、沖縄に行ってよかったねって、楽しい思いでになったねって、思って欲しくて、その気持ちを伝えたくて手を振っているんだ。

時々機内のお客様が手を振り返してくれるのが見えると、すごくうれしいんだよな。

俺たちが整備した飛行機に乗っているお客様から手を振ってもらえるなんて、幸せなことだと思わないかい?」

Mさんの話に感動したK君は、この時以来、Mさんと同じ気持ちで手を振って見送るようになりました。

その後、このお見送りは沖縄空港支店整備課にとどまらず、どんどん広まっていきました。

そしていつしか「Good-Bye Wave」と呼ばれるようになり、世界中の空港で当たり前の光景となったのです。

実は、この「Good-Bye Wave」、規定やマニュアルには一切定められていません。

よく見てみるとわかりますが、整備士たちの手の振り方はそれぞれ違います。

でも、お客様のことを思う気持ちは、皆同じ。

「この旅を、安全に楽しく過ごしてほしい。いってらっしゃい」

そんな想いを込めて、今日もまた、整備士たちは手を振っているのです。

炎天下の日も、寒い冬の日も、たとえ台風の日であっても、姿勢を正して、手を振り続ける整備士たち。

私たち客室乗務員(CA)も、その姿を窓から見ています。

「私たちが心を込めて整備した飛行機です。

どうぞ安心して乗務してください。

そして、私たちの分まで、お客様が快適に過ごせるようサービスしてください。

私たちの想いは託しましたよ」

そんな、彼らの熱い声がいつも聴こえてきます。

その安心感と励ましに、「今日も頑張ろう」と思うのです。

実は、手を振っているのは整備士だけではありません。

機内の清掃を担当している係員たちが一列になってお見送りをしている空港もあります。

今でこそ日常の何気ない光景なのですが、毎回、手を振る姿に胸が熱くなります。

「ありがとうございます。行ってまいります。私たちにお任せください」

手を振り返しながら、しっかりバトンを受け取り、私たち乗務員は飛び立ちます。

規定やマニュアルにも書かれていない、一人の整備士が始めた何気ない行動が、多くの人の共感を得て世界中に広がった。

強制的にさせられたわけではなく、それぞれがそれぞれの意思でその列に加わっていった。

とてつもなく偉大なことだと思います。

でもそれは、皆が同じ想いをもっているからこそ。

だからこそ、つながっていったのでしょう。

ANAでは「気づき」を大切にしています。

自分へ気づき、考え、動く。

それが、また新しい気づきをつくるのです。

引用元:(空の上で本当にあった心温まる物語)


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