心の窓」カテゴリーアーカイブ

心の窓 「ベストアンサー」

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こちらのサイトから引用させていただきました ⇒ http://fundo.jp/29764

初めての育児に疲れきった母親が、「6ヵ月の自分の子供が嫌いになりそうです…」と悩みを打ち明けます。そして、その切実な悩みに対するベストアンサーが話題となっています。

以下、 OKWave 上でのやりとりを引用しています。

悩める母親の質問(原文のまま)

今月末で6ヵ月になる娘が居ます。初育児です。

娘は新生児の頃から本当によく泣き、本当に寝てくれなくて、ずっとずっと抱っこの子でした。

6ヵ月の今でも昼寝はまだ下手で、常に抱っこで二時間くらい揺れています。
二時間寝るとまあまあご機嫌なので、寝かせたいんですが、でも眠りが浅く20分とかで起きちゃう事もあり、そうするともう1日ほぼずっと眠グズりです…。
寝かせてるのに、寝ない。抱っこすると泣き止み窓の外を見つめていたりするので、眠くはないのかなと思い下ろすと、目をこすりながら大泣きします。

ベビーカーというか抱っこ紐でも外では絶対寝てくれず(新生児の頃は外の方が寝てましたが)、昼寝がうまく出来ずに外に出てしまうと、駅でも電車でもバスでも何処でも息が止まりそうな程泣きます。

友達の子供を何人も見てきましたが、ここまでここまで泣く子は見た事がありません。

最近になり人見知りも出てきたのと、音に敏感なのでビックリするとまた息が止まりそうな程泣きます。

生まれたばかりから、おっぱいにうまく吸い付けず、泣いて怒り、でも頑張り、搾乳し、とやりましたが結局満2ヶ月まで頑張り完ミにしたので添い乳も出来ません。
おしゃぶりも嫌がり、すぐに手で取ります。

なんだか、新生児の頃のおっぱいから始まり、この子は私を困らせる為に産まれてきたのか、なんで友達の子の様にベビーカーでいつの間にか寝るという事が出来ないのか、せめておしゃぶりくらいしてくれないのか…ともう毎日毎日朝始まるのが嫌で、外に出るのが嫌で、大人しい赤ちゃんを見て羨ましがる自分が嫌で、我が子を憎たらしく思ってしまう自分も嫌で、なんか全てが嫌です…。

私が怒るからなのか、私より旦那があやす方が笑います。
私の場合は笑顔だけ、旦那の場合は声出してけらけら笑います。それもイライラします…

大変な時間に面倒見てるあたしより、帰宅後ちょこっと遊ぶだけの父親の方がいいのかと。

元々子供は大好きです。欲しくてたまりませんでした。

なのに、今は貧乏くじを引いたとまで考えてしまう自分が居ます。
この先、いつか楽になるとよく言われますが、想像つきません。
スーパーで寝っころがって大泣きする様な子供に育ちそうで不安です。

私が抱っこしすぎなんでしょうか。
産婦人科には抱き癖はないから思う存分安心させてあげましょうと言われました。

根本は大好きです。笑うと、さっきはごめんねと落ち込みます。
しかし、それは一般的な赤ちゃん可愛いという気持ちなのか、自分の子供だから可愛いと思うのか、私に母性が有るのか不安です。育てていけるのか不安です。

でも毎日朝は来て、試行錯誤しながらあやして、でも泣かれて、怒ったように叫ばれての繰り返しです。ベビーカー乗ってるときっと眠くなって、なのに寝れないから泣く、人見知りで泣く、なので外にも出たくないし、同月齢の子供のママとも会いたくなくなってしまいます。

私の友達の子はどの子も、ほっといたら寝る、おっぱい上手に吸う、外で知らない人に話しかけられてもニコニコします。
なんでうちの子は…。

もうどうしたらいいか分かりません。
寝顔さえ可愛いと思えなくなってきました。
助けてください

思ったままに文を打ってしまったので読みづらくてすいません。

質問者が選んだベストアンサー(原文のまま)

ママごめんね。
おっぱいのむのヘタでごめんなさい。
泣き虫でごめんなさい。
お昼寝ちゃんとしないでごめんなさい。

わたしママが好きなの。
だからずっと起きていたいの。
ママを見ていたいのずっと。

パパはたまにしか抱っこしてくれないから、
また抱っこしてくれるように笑ってあげないとね。

ママといたら甘えて
いつもグズグズになって
ママが困ってるのわかるけど
ママがかまってくれるのがうれしいの。
ママとずっと一緒にいたいの。
わたし、ママをひとりじめしたいの。

他のママじゃいや。
わたしはママが世界で一番好き。
わたしのママは世界一優しい。

わたしがもっとお姉さんになったら
ママとおそろいのワンピースを着ておでかけするの。

わたしがおとなになったら
ママと親友みたいになるの。

ママより背が高くなったら
ママをおんぶしたいの。

今は他の赤ちゃんよりたいへんでごめんね。
でも、わたし、ママしかいやだったの。
わたしね、ママをえらんできたの。

ママ、わたしはまだしゃべれないけれど
いつも目や手でママを大好きと言ってるの。

ママ、大好き。
ママ、大好き。
ママ、産んでくれて、ありがとう。
いっしょうけんめい育ててくれて、
ありがとう。

質問者からのお礼のコメント(原文のまま)

読んで泣いてしまいました。
34時間かかって娘を出産しましたが、その同じ時間娘も一緒に頑張って産まれてきてくれたんだと。

なんだか我に返りました。娘が大好きです。
新生児の頃は大変ながらも愛おしくて大好きで、その気持ちの方が大きかったのに、だんだんと私の都合で考えてしまって。
反省も出来たし、暖かい気持ちになり、また頑張ろうと思えました!本当にありがとうございました。

img1_R出典:www.didymos.jp

育児に疲れ切ってしまい、自己嫌悪にも陥ってしまっていた質問者の方。その辛い心を救ったベストアンサー。質問者の方が「また頑張ろう」という気持ちになられていて、とても良かったと思います。

みなさんはどう思われましたか?

出典: okwave.jp


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心の窓 「君の勝ち」

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陰口というのは

「レベルの低い人が、高い人に向けて言うもの」

もし陰口をいわれたなら

その時点で、君の勝ち


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心の窓 「18歳の遺書」

「18歳の回天特攻隊員の遺書」

お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。

胸は日本晴れ。本当ですよお母さん。少しも怖くない。

しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。

それは、今日私が戦死した通知が届く。お父さんは男だからわかっていただけると思います。

が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。

弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。

お母さん。

こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。

しかしお母さん。

考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。

戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好だった母さんが死なれるから私が行くのですよ。

母さん。

今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。

だからね。お母さん。

今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。

でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。

お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です。

***

こんな時代が二度と来ないように、私たちはしっかりと記憶にとどめておきたいと思います。
アンドレ・ギャニオンの「愛につつまれて」の名曲はあまりにも切ない・・・


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心の窓 「日本航空」

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これは日本航空が経営危機で、世間に心配されていた頃、
ある飛行機を利用した乗客の、機内で体験されたお話をシェアさせていただきます。

機長によるアナウンスが入りました。

このアナウンス、
とても心温まる素敵なものでした。

このような内容でした。

「えー、機長の○○でございます。
 当機はまもなく成田国際空港に着陸いたします。

 小さなお子様をお連れのお客様、
 お子様はちゃんとお隣にお座りでしょうか?

 迷子になっていないでしょうか?

 当機はジャンボ機で、貨物室、客室1階、2階、
 ベッドルームを入れると4階建てになっております。

 貨物室やベッドルームには秘密の扉、
 通路を通って行くことができます。

 これらは秘密ですので、
 皆さまにお教えすることはできませんが、
 でもどうしても知りたいという方は、
 ぜひお近くの客室乗務員にお尋ねください。

 中でも、気の弱そうな客室乗務員に
 声をかけてみてください。

 もしかしたら、教えてくれるかもしれません。

 しかし、私パイロットを16年間しておりますが、
 未だかつて気の弱い客室乗務員に会ったことは一度もありません」

乗客がチラホラと笑い始めます。

「これらの秘密の扉ですが、
 たまに見つけて入り込んでしまい、
 迷子になってしまうお子様がいらっしゃいます。

 もし、お子様が迷子になってしまい、
 見つけられない場合は、
 お近くの客室乗務員にお知らせください。

 いったん皆さまに当機をお降りいただき、
 CA、パイロット総出で大捜索いたします。

 そして見つかった際には…
 いったん、日本航空でお預かりし、
 10年後に立派な客室乗務員、
 またはパイロットとしてお返しいたします」

(乗客笑顔)

「えー、昨年の夏休みには、7名のお子様が
 迷子になり、現在、日本航空でしっかりと
 訓練中でございます。

 最後になりましたが、
 このように日本航空が業務を続けていけるのは、
 本日の444名の乗客の皆さまをはじめ、
 国民の皆様のおかげでございます。

 誠心誠意、社員一同頑張って参りますので、
 今後とも日本航空をよろしくお願い致します」

(乗客一同、感動)

「それではまもなく
 成田国際空港に着陸いたします」

日本人パイロットによる
こんなにユーモアのあるアナウンスは、初めて!

最初はふつうに『ふんふん』と聞き流している程度でした。

しかし、どんどん周りの乗客が耳を傾けており、

最後は全乗客そのアナウンスに聞き入ってしまいました。

私は二階席でしたが、
一階席では、笑い声や拍手があったようです。

アナウンスが終わった後、
私と妹はもちろん拍手。

ほんとうに心温まるアナウンスでした。

この方は、会社の経営状態が悪くても、
会社の信用回復のために、会社を愛して
仕事をされているんだと思います。

それがとても伝わりました。

出典元:ゆるゆる倶楽部 


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心の窓 「戦艦大和」

「若者よ、君たちが生きるきょうという日は
        死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」
       
           八杉康夫(戦艦大和語り部) 
 
大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。
なおも攻撃が続けられ、
魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
次第に船は傾いていきます。

砲術学校では、戦艦は15度傾いたら
限界と習ってきましたが、
25度、30度とどんどん傾いていきます。

それでも、戦闘中は命令がない限り 
持ち場を離れることはできません。

その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
これが事実上「逃げろ」という意味です。

すでに大和は50度ほど傾いていましたが、
この時初めて、
「大和は沈没するのか」と思いました。

それまでは本当に
「不沈戦艦」だと思っていたのです。

もう海に飛び込むしかない。
そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、
自分の腹を掻っ捌いたのです。
噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。

船はますます傾斜がきつくなっていきました。
90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
 
 * * * *
飛び込んだのも束の間、
沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。

その時、私の頭に過ったのは
海軍で教わった「生きるための数々の方策」です。

海軍に入ってからというもの、
私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」ことでした。

漂流した時は体力を消耗してしまうから
泳いではならない……。

陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では
「お国のために死ね、 天皇陛下のために死ね」
 などと言われたことは一度もありません。

ひたすら
「生きること、生き延びること」
を教わったのです。

だから、この時も海の渦に
巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。

しかし、どんどん巻き込まれ、
あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。

その時、ドーンという轟音とともに
オレンジ色の閃光が走りました。

戦艦大和が大爆破したのです。
そこで私の記憶はなくなりました。

 * * * *
気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。

幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。
しかし、一所懸命泳ぐものの、
次第に力尽きてきて、
重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。

「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。

この期に及んで情けない、
誰にも聞かれてなければいいが……。
 

すると、すぐ後ろに
川崎勝己高射長がいらっしゃいました。

「軍人らしく黙って死ね」
と怒られるのではないか。
そう思って身構える私に、
彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」
と言って、自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
そして、なおもこう言ったのです。

「もう大丈夫だ。
 おまえは若いんだから、頑張って生きろ」

4時間に及ぶ地獄の漂流後、
駆逐艦が救助を始めると、
川崎高射長はそれに背を向けて、
大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。

高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
大和を守れなかったという思いから、
死を以て責任を取られたのでしょう。

高射長が私にくださったのは、
浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。

 * * * *
 
昭和60年のことです。
いつもピアノの発表会などで
お会いしていた女性から喫茶店に呼び出されました。

彼女は辺見さんが書かれた
『男たちの大和』を取り出し、こう言ったのです。

「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」
驚いたなんていうものじゃありません。

戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、
厚生省など方々に問い合わせても
何の手がかりもなかったのに、
前から知っていたこの人が
高射長のお嬢さんだったなんて……。

念願叶って佐賀にある高射長の墓前に
手を合わせることができましたが、
墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。

その時私は50歳を超えていましたが、
自分が31歳だった時を思い返すと
ただただ恥ずかしい思いがしました。

そして、不思議なことに、
それまでの晴天が急に曇天となったかと思うと、
突然の雷雨となり、
まるで「17歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。

 
天皇も国家も関係ない、
自分の愛する福山を、
そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。

不沈戦艦といわれた大和の沈没、
原爆投下によって被爆者になる、

 
そして、敗戦。

 
そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。
人として生きたなら、
その証を残さなければなりません。

大きくなくてもいいのです。
小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
戦友たちは若くして戦艦大和と運命を
ともにしましたが、
いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を
与え続けています。

復員後、長く私の中に渦巻いていた
「生き残ってしまった」という罪悪感。
それはいま使命感へと変わりました。

私の一生は私だけの人生ではなく、
生きたくても生きられなかった
戦友たちの人生でもあるのです。
うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。

未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
真の日本人になってくれるよう
私は大和の真実を語り続け、
いつか再び戦友たちに会った時、
「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」
と胸を張りたいと思います。

***

『致知』2006年8月号
特集「人学ばざれば道を知らず」より転載させていただきました


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