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心の窓メルマガ版 19 「あなたの夢はなんですか」

あなたの夢はなんですか

数ヶ月前池間哲郎さんの講演を聞きました。私にとってとても衝撃的な内容でした。その方は世界中の貧困な国を回って、援助の手を差し伸べてられる方です。

池間さんはビデオ制作会社の社長として、フィリピンのスモーキーマウンテンというところに取材に行かれたとき、10歳くらいの女の子と出会いました。

その場所は、あまりにも貧しいため、子供たちが続々と集まってくるゴミの山からお金になるものを集め売って生活しているのです。一日10時間も働いて50円にもなりません。池間さんはその女の子に尋ねました。

「あなたの夢はなんですか?」

すると少女はこう答えました。

「私の夢は大人になるまで生きることです」。

あまりにも厳しい環境の中で、病気や飢えで子供たちの半分も大人になるまで生きることができないのです。

ゴミを持ってきたトラックを追いかけるあまり、突然バックしてきたトラックから逃げられずぶつかってキャタピラに巻き込まれて死んでしまう子供。その遺体はそのままゴミの山に埋もれてしまいます。

池間さんはこの衝撃的な言葉を聞いてから、世界中でボランティア活動をはじめるきっかけとなりました。大きな使命をもったわけでもなく、「知ってしまったからやるしかない」ということだそうです。

カンボジアではまだまだ地雷が埋まっています。踏んでしまって足を失ってしまう子供たちもまだまだいます。

一番安い地雷は一個65円。中の部品はメイドインジャパンのものもあるそうです。何かの電気製品を流用したのでしょう。そんな地雷は水に浮くそうです。

カンボジアでは、雨季と乾季があります。雨季には大洪水が起こり、まだ処理されていない地雷原から地雷がプカプカと浮いて移動してきます。そして水が引いたとき、本来地雷のないはずのところに流れてきて土がかぶさって見えなくなります。

自宅からポンと地面に飛び降りた子供がその場で地雷を踏んで足を失ってしまう。こんな悲惨な状況が続いているのです。

そんな貧困な村でも、テレビは普及しています。一日中つけっぱなしです。その理由をきいて驚きました。テレビをつけていると子供が外に遊びに出ないから地雷を踏まなくてすむというのです。

町に出るとストリートチルドレンがたくさんいます。またシンナー吸っている子供もたくさん見かけます。シンナーは感覚をマヒさせますので、空腹を忘れさせるもっとも安い食事だそうです。

シンナーを吸い続けた末に、歯がボロボロになり脳細胞が壊されて死んでしまう仲間をたくさん見ていていも、やめられないのが飢えなのです。

次にマンホールチルドレンの話です。

モンゴルでは10年に一度くらい氷点下30度という大寒波がくるのですが、放牧民は家畜が凍死してしまい、貧乏のどん底に陥り餓死寸前に状況になります。

せめて子供たちだけでも助けたいと親は町に子供たちを置き去りにしていきます。町なら食べ物を見つけやすいから自分で生きていきなさい、というこれが親の愛情なのです。

冬にはもちろん路上で生活できません。子供たちは近くの火力発電所から流れてくるお湯で温度があがっている下水のマンホールの中ですごします。

池間さんは、いつも現地ではそんな子供たちと一緒に寝泊りしコミュニケーションを図っているのですが、さすがにこの場所だけはダメだったそうです。

なぜかといいますと、子供たちの耳や唇が寝ている間にネズミにかじられて、ないのです。

マンホールの中でちょっとでも横になると、お腹をすかせたネズミがかじりにくるそうです。ゴキブリなどの虫も多数います。とても人間の住む環境ではないと池間さん言っています。

ビニールヒモをかじっている子供がいました。なにをしているのかと聞いてみると、もう3日も何も食べていない。ビニールでもかじっていないと空腹が耐えられないそうです。

そんな子供たちに人間らしい生活をさせたいと、沖縄出身の池間さんは寄付を募り、沖縄の家、という名前の家をプレゼントしました。

こんな貧困に苦しんでいる子供たちが世界中にいるのです。私たちにできることはなんでしょう。是非お考えになってみてくださいね。

この池間さんの講演会を企画しています。2008年の4月5日に神戸でやりたいと思います。

この場でまたご案内いたしますので、今の自分がなんと幸せなのか、そして池間さんの話で知ったことで自分に何が出来るのかを考えていただければと思います。どうぞ、よろしくお願い致します。

ぴあの屋ドットコム 石山


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心の窓メルマガ版 18 「法廷が泣いた!」

奇跡のような出会いに感謝して法廷が泣いた!

「法廷が泣いた!」

以前、私の住む地域である事件がありました。記事の内容を詳しく書きますので、みなさんじっくりお読みになって、ご自身でお考えくださいね。

京都市伏見区の桂川河川敷で2月1日、無職K被告が、認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が行われた。事件の内容は、認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。K被告は母を殺害後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取りとめた。

K被告は両親と3人くらしだった、95年に父が亡くなり、その頃から母に認知症が出始め、一人で介護をしていた。母は05年ころから昼夜が逆転して、徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。K被告は休職してデイケアなどを利用したが、介護負担は軽減せず9月に退職。生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。

「死ねと言うことか・・・」

介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月に31日に心中を決意した。「最後の親孝行に」K被告はこの日、車椅子の母をつれて京都市内を観光。市内のコンビニで、被告は財布に残っていたわずかな小銭で菓子パンを買い、二人で食べたという。

2月1日早朝、京都市伏見区桂川河川敷の遊歩道で、K被告が「もう生きられへん、ここで終わりやで」などと言うと、母は、「そうか、あかんか。ずっと一緒やで」と答えた。
被告が「すまんな」とあやまると母は「こっちへこい」と呼び、K被告が母の額にくっつけると母は、「おまえはわしの子や。わしがやったる」と言った。この言葉を聞いて、K被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、自分も包丁で首を切って自殺を図った。

冒頭陳述の間、K被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、眼鏡をはずして右腕で涙をぬぐう場面もあった。裁判では検察官がK被告か献身的な介護の末に失業等を経て、追い詰められていく過程や殺害時の二人のやり取りを供述。そのなかで被告は次のように語った。

「母の命を奪ったが、もう一度 母の子で生まれたい・・・」

陳述の最中に検察官が涙で声を詰まらせるという異例の雰囲気の中で裁判は進行した。

目を赤くしたA裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
「痛ましく悲しい事件だった。介護の苦しみ、絶望感は言葉では言い尽くせない。今後あなた自身は生き抜いて、絶対に自分をあやめることのないよう、母のことも祈り、母のためにも幸せに生きてください」裁判官が最後にこう励ましの言葉を語りかけると、「ありがとうございました」と頭を下げた被告。法廷には、傍聴人と検察官と被告のすすり泣く声が響き、法廷は悲しみにつつまれた。

献身的な介護ぶりなどから検察が異例の“情状陳述”をした京都地裁では、K被告に懲役2年6月、執行猶予3年を判決した。

罪状をあばくはずの検察が、冒頭陳述で介護をめぐる被告の孤独で過酷な生活、母を慈しむ心情と親子の絆など、逆に被告に有利にさえなる状況を包み隠さず再現し、傍聴人だけでなく、裁判官さえも涙を浮かべ聞き入り、さらにその後も証人から被告への同情証言が相次ぐ異例の展開で、注目を集めた裁判だった。

そして執行猶予の理由は、「命を奪った結果は取り返しがつかず重大だが、社会で生活する中で冥福を祈らせることが妥当」ということだった。K被告は、「母の介護はつらくはなかった。老いていく母がかわいかった」と語っている。

裁判官は、「献身的な介護を受け、最後は思い出の京都市内を案内してもらい、被告に感謝こそすれ決して恨みなど抱かず、厳罰も望んでいないだろう」と、母親の心情を推察。 半面、「公的支援が受けられず経済的に行き詰まった」と行政対応に苦言を呈した。被告は昨夏、何度か社会福祉事務所に生活保護の相談に行った。しかし「頑張って働いてください」などと門前払いされた。この対応に「被告が『死ねということか』と受け取ったのが本件の一因とも言える」と裁判官。「介護保険や生活保護行政のあり方も問われている」と強調した。

以上が、事件の内容です。殺人事件なのに私は涙がこぼれました。何かがおかしいですね。K被告は、人に迷惑をかける生き方はしたくない、という思いがとても強かった人だったそうです。それが裏目にでてしまった事件だと思います。

私は以前、ある方の薦めで、「お金のいらない国」(長島龍人著)という本(1.2.3巻)を読んでとても感銘を受けたことがあります。お金がないと幸せになれないのか、という視点をすべて覆す話なのですが、お金というものがなくても世界中が幸せになれる方法がここにはありました。

それは、すべての人が助け合うことです。昔の日本にはありましたね。みそが足らなくなったら隣から借りる。お米が足りなくなったらまた貸してあげる。まわりに困った人がいたら手を差し伸べる。人はそれぞれ得意なものとそうでないものを持っています。自分が好きなこと、得意なことを一生懸命やり、自分の足りない部分を補い、助け合って経済が回るなら、それが本当の幸せなユートピアの時代なのではないか、と私は考えています。それは銀行も保険会社もなんにもいらない時代なのです。

ぴあの屋ドットコム 石山

ご感想をいただきました

Yさん:
読んでいて涙が出てきました。
親を思う子の心、子を思う親の心がこのような形で終わらなければならないのは本当に悲しいですね。日本という国は本当に先進国で裕福な国なのでしょうか?
庶民の痛みを思いやることの出来る政治家がこんなに少なくてはまだまだいい国は作れませんね。

Sさん:
ホントに残念な事件です。
もし私がこの方の傍にいたら、何をしたでしょう・・・アパートのオーナーだったら? コンビニの店員だったら? 役所の人間だったら? 一体、何ができたでしょう・・・事務的な会話の中からは、何も見えてきません。
無力な私ですが、私に相談してみようと思われるような人間になりたい。
そして、全て解決できる人間になりたい。一人じゃ無理でも、みんなが助け合いの精神をもてば、できないことは何もないですね。
(私も義父と義祖母2人の介護に直面しています。この事件は決して人事ではありません。)
お金の要らない国、私も読みました。まさにこの国は地上天国ですね。これを読んだあと、お金が存在するがゆえに現在の社会が歪んでしまったように思え、持っているお金全部、捨ててしまってもいい!という衝動に駆られました。
はやくそんな地上天国が実現する日を目指し、最大限のできることをしたいです。
まずは、24時間笑顔かな!

Oさん:
介護制度の背景にある問題がこのように、不幸な結果を生んでいるのですね。
国は介護施設を増やさず、在宅介護に切り替える為の介護保険制度でした。
確かに施設介護より、身内の中で在宅介護の方が介護される方のとって、幸せなのかもしれませんが、それによって、かかって来る身体的経済的負担は相当なものです。
それを補うのが国であるはずが、国の政策は介護業者に甘い汁を吸わせるものでした。介護の現場をもっと国は知るべきです。
しかし、国はまた後期高齢者の保険制度を導入します。ますます日本は、姥捨て山化して行くのですね。

Kさん:
まーちゃん今の日本って弱者にとってとても厳しい国なのですね。これからは私達の手で少しでも良くして行きたいと思います。

Tさん:
政治家は、日本を住良い国にする責任があるにもかかわらず、私利私欲に走り税金をごまかし、不当な献金を当たり前にして、弱者には目を向けていない、地方行政も、本当に困っている人を助けてほしい。

Kさん:
ぴあの屋さん、こんにちは。いつも自分自身を見直していく機会のお話ありがとうございます。じっくり読ませて頂きました、私の家でも祖父が寝たきりになり、やがて15年以上自宅で家族一丸となって看病してきました、それまで両親が二人とも働きに出てました、しかし、それでは駄目でした、なぜなら祖父は体が大きく祖母一人ではとても無理でした、泣く泣く母が会社を辞めて看病する事になりました、とたんに生活は苦しくなりました。それでも何とか乗り越えていけました、なので今回のお話は人事ではありもせんでした、真面目が馬鹿を見る、悲しい現実ですね・・・
あと、よく国や役所が責められていますが、生まれたときからお金持ちで何の苦労も知らず、エスカレ-タ-式の用に大学を出て公務員になる!
もし自分がその人だったらどうでしょう?本当に弱い人の気持ちが 分かっているか・・と思うと怖くなりますね、私は誰も悪いとは思いません、ただ相手の気持ちや状況を経験していないから、そうするのだと思います、病気になった人は病人の気持ちがわかるように!
これからも感謝の気持ちを持って生きていきたいと思います。

Mさん:
私もこの報道はテレビを通じて知りました。本当に悲しい事件です。
家族の中に認知症の方がいて、このような問題を抱えている家庭は少なくないような気がします。私の家では、父方の祖父母が90歳を超え、二人とも認知症です。
はじめは8年前に祖母が認知症になり、祖父が一人で献身的な介護をしていました。しかし、二年半前に今度は祖父がそれにかかってしまいました。祖母は現在、実家のある長野の病院で、チューブに繋がれ、寝たきりの状態で今もなお認知症と戦っております。
祖父は、祖母の見舞いに行く途中交通事故に遭い、頭を強打し、その怪我が原因となって、認知症になりました。そして、東京の病院に入院しております。
二人ともに、天命を全うするまで入院生活を送っていくと思います。
幸いなことに、二人とも自分の年金で入院しているので、私の家族、父方の兄弟ともに、何の負担もなく生活しておりますが、この事件のケースのように息子さん自身の生活もままならない状態で、介護をしていくのは本当に大変かと思います。
この現状を、国がどう見ているのか。こういった悲しい事件を二度と繰り返してほしくないです。
今の日本の行く末を見るにつけ、高齢者にとっても、若い人にとっても、とても住みにくい日本になっていくのではないかという不安が拭い切れません。

Hさん:
辛いですね。。。涙が出ました。。。
介護の問題はこれから大変になるのに。。。政治家の方たちは、そして、キャリア官僚の方たちはどう思うのでしょう。。。
このままだと以前誰かが言ってましたが、一部の富裕層しか住めない日本になっていきそうです。骨太の改革、美しい国日本はいったい何だったのでしょう・・・。昔の政治家の方はもっと反骨精神があったような気もしますが、今は芸能界ばりのはやりすたりで日本の政治が流れていっているように感じます。

Rさん:
ま~チャンは知ってますか? 私のは現場サイドの話
介護保険って すごく変ですよ
私は、自分がヘルパーであり 家族が利用者なので両方分かりますが
何が変って? つまりは、そこに介在するお金の流れです

例えば、浴用椅子を介護用品として購入すると1割は利用者が支払い 残り9割は介護保険からその事業主へ
金額にすると もっと びっくりですよ
\12000の椅子は\1200で利用者が購入 残り¥10800は介護保険から事業主へ
そこらへんのホームセンターなんかでは同じ物が¥3000前後ですから 介護用品として購入する意味はなんでしょかね?
もちろん、浴用椅子に限らず、すべての用品においてですよ
3年前に亡くなった義父に靴を買おうとしたところ 値段にびっくり
【コナン君】よろしく スーパーダッシュが出来る靴かい?って思いましたモン

それから、ヘルパーさんやら 介護施設でお風呂に入ったり この利用金額も 利用者は1割負担 9割は介護保険から事業主へ
では、金額に直しましょう
ヘルパーを1.5時間 生活援助の単位として利用すると¥2910になります
利用者は¥291を支払い 事業所は¥2619を介護保険から
そして、事業所により異なりますが 私の事業所ではヘルパー時給は生活援助で\1200 身体介護で¥1500(交通費含む 移動時間除く)ですからこの場合、事業所はヘルパーに¥1800 差額¥819が残る計算ですよね
そんな もんじゃない?って感じします?

では、身体介護1時間 生活援助1.5時間の組み合わせの利用は¥6510です  利用者は¥651 事業所は¥5859 ヘルパーへは¥3300 事業所の差額¥2559 って感じです

移動時間に取られれば?いったい何やってんだか??
現状 辞めていくヘルパーって多いかな

以前、朝7時半から1時間 身体介護があって しかも利用者宅まで
自宅から車で40分 この距離の往復のガソリン代と時間を使って
¥1500の仕事 朝の時間が時間なだけに私の家族がギクシャク………し始めて しかも、
早朝は1.5倍の利用料でヘルパーの時給もUPですよって ケアマネからの話で後で知る事になり ここでも決まりごとなのに、言ったもん勝ちの縮図が見えて嫌な気分に
程なくして 生活保護では介護の1割の負担もままならないと この利用者が断って来たとか   ふ~~んって思いません?
ヘルパーは利用者の都合で急に忙しくなったり、失業したり
在宅介護を打ち出した国ですが………ってトコです
介護認定もホント変ですよ~~~   聞きます?
ご要望があれば 次回に

Sさん:
↑↑↑
すごい現状ですね・・・知りませんでした。
我が家には完全寝たきりの義父(64)と
脳梗塞で動きにくくなった義祖母(84)の二人がいます。
入浴サービスと往診はお世話になっていますが、
自営業なもので、出来ることは義母と私とでやっています。
必要なグッズがあれば、
「まあ1割負担だから、買おうか(借りようか)・・・」
と思って、いろんなものを買いました。
負担金としては少ないですが、この疑問のあるお金の流れを知ってしまうと、
軽々しく購入できないですね。
そして、ヘルパーさんって、そんなに大変なものだとは
知りませんでした・・・
もっと、他に使うべきところに使うべきです。
これからますます高齢社会・・・ 不安だらけですね。
この事件を受けて、少しでも改善の方向に進んでくれれば
いいのですが・・・。

Rさん:
ま~チャン 介護認定も変だよバージョンね

介護認定を取るのに市役所に行って申請を出し、後日市役所から調査の人が来るの
沢山の質問事項に利用者が一つ一つ答えていく訳なのですが、この質問に対してのポイントは、自立出来るか 出来ないかのどちらかを調べる事  出来るか・出来ないか のどっちかです

ここで問題なのは、利用者の答え方、調査員の捉え方ひとつで認定結果が全然が変わって来ると言う事

昭和一桁産まれの義母は、自分が日常生活で出来ない事が増えていく都度に罪悪感さえ感じてしまう人です  この時代の人は大抵そうですね
こんな事は出来ますよね?って質問されれば、「はい」 って答えてしまいす
絶対に出来ない事でさえ、「少しでも出来る様に努力しています」 って頑張って答えてしまいます

義母は腰椎の圧迫骨折で腰に負担がかかる事は出来ません
5つある内の4つがすべて骨折により潰れていて、かろうじて残った1つの骨が彼女の直立歩行を支えている状態です
残り1つも骨折すると車椅子の生活を余儀なく…です
具体的に牛乳1リットル1本を持って歩けませんってトコでしょうか
寝具も布団から起きあがる事は不可能です
ベットのガードにつかまり時間をかけてやっと起きあがれる毎日
(家族はこの状態を手伝う事が出来ないのです 手伝う力のかけ方によっては、逆に激痛を伴う事になるからです ぎっくり腰をやったことがある人は分かると思います)

しかし、自分で起きあがれる これで自立です
上記の状態をどれだけ話しても考慮されませんでしたね
しかもベットだから起きあがれるのに 自立だからベットは介護用品のレンタルでは認めてもらえないのです ホント おかしいでしょ

さて、問題の介護認定がでました 「要支援」 し・え・ん です

私は、この時の介護調査表を取り寄せ、待つ事1週間
さぞ、立派な調査表かと思うでしょ  調査の時に書き込んでたコピーですよ コピー
こんなコピーするだけの仕事に1週間って 市役所って いったいどれだけ忙しいんでしょね

私は再申請に付け加え、今度、調査に見える時は24時間体勢でお願いしますと 調査員の方にお伝え下さいと 精一杯の嫌みです
後日、違う調査員が来ましたケドね

結果、「要介護」です

私は、再申請するのに 時間と労力を使い そして少しの忍耐がありました
っと文字にすると簡単ですが、結構な時間と労力で 何度プッツンしそうになった事か………
でも、このリスクに対して、再申請する人がいったいどれだけいるんだろうっと疑問です
私のはほんの一例です 介護難民って ホント嫌な言葉ですね
長々すみません

Oさん:
介護認定に疑問を持つ一人です。

総てが行政と業者の都合で片付けられているように思います。

リサちゃんさん、要支援とはひどすぎですね

しかし、要支援・要介護・1・2・3・4・5
と段階がありますが、
1割負担が出来なくて、介護認定が降りても、
充分な介護を受けられないという事実もあるんですよね。

矛盾が多すぎます。
今回の事件は、こんなお粗末な
介護保険制度に責任があると断言できますね。


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心の窓メルマガ版 17 「プチ・ベジタリアン」

プチ・ベジタリアン

2ヶ月ほど前に献血をしました。献血は10代のころからずっとやり続けているのですが、血液検査を無料でしてくれて、その詳細な結果を郵送してくれるので、けっこう重宝しています。人のためだけではなく、自分の健康管理のためにも続けていこうと思っています。

ただ、今回の結果には、私は大きな衝撃を受けました。45歳になって体重も増え、ついに成人病予備軍になりかねない数値が出始めてきたのです。これは大変だ、まず何をしたらいいのだろう、と私は考えました。
まわりの人に聞いてみると、皆さんいろいろなノウハウを持っておられるようで、「この水を飲むといい」とか「この健康食品が一番いい」、さらに「そりゃビリーズ・ブート・キャンプしかないよ」などと教えてもらいました。
私はとてもガンコでなかなか人の言うことを聞かない性格で、やるとなったらとことんやるのですが、本当に納得しないとまったく行動しない典型的なB型ですので、自分なりにじっくりと対策を考えてみました。

さらに専門家に聞いてみると、肉とお酒をやめなさいとのこと。えっ?ベジタリアンになれってこと? ベジタリアンとは、肉類を一切食べず野菜中心の食生活をする人のことを言います。実は、私は今までベジタリアンってアレルギーを持つ人か、宗教的思想のある方、またはミュージシャンがやるもので、私には関係がないと思っていました。

しかし、最近あるところで21歳のベジタリアン男性と知り合いになって、皆で食事をするときにも彼はベジタリアン食を予約していたのを見て、彼の考え方にある意味賛同してしまったのです。肉を食べるということは、その殺された動物の悔しさの念を受けてしまうことや、生ある命を食べることのむごさなど、若い彼がこんな考えをもち、自分の意思でこれを始めたということにとても心を動かされたのです。

また、以前「アミ 小さな宇宙人」(エンリケ・バリオス著)という本を読んだことがあります。子供の格好をした宇宙人が地球にきて、地球の子供にいろんな話をするというものですが、そのなかの言葉でずっと頭を離れなかったセリフがありました。
宇宙人が地球人の子供にこう話します。「キミの今日の夕食は、ビーフステーキなんだね。よく牛の死骸が食べられるもんだ! 一切れの死んだ牛の肉。殺されたウシの肉だ」。この小説は世界中でベストセラーになった本ですが、宇宙人からみた地球はいまだ野蛮な、愛の度数の低い未開の惑星であることが書かれていて、私はこの言葉がずっと頭から離れず「いつか肉食をやめられたらいいのに・・・」と思い始めていました。また世界中の人が莫大な穀物を消費する家畜を食べなければ、餓死する人は一人もいなくなる、ということを知って、いろいろなことがシンクロしてきている今、やってみよう、と決心したわけです。

びっくりドンキーではいつも400gのハンバーグを注文していたくらい、肉食の好きだった私が、2ヶ月前から毎日てんこもりのキャベツや穀物だけの生活が始まりました。肉だけではなく、魚介類全部やめました。付き合いで飲んでいた程度ではありましたが、飲みだしたら底なしといわれるくらいお酒の飲めた私が、ピタリとお酒も絶ちました。

そこで気付いたことがたくさんありました。
やってみればできるということ。闘争の心が少なくなったこと。今の生活がとても心地いいということ。体重が減り、体がとても軽くなり、精神的にも肉体的にも30代くらいになったような感じになったことなど、まだまだあります。
この環境がとっても心地いいとフト思ったのは、もし人間に生まれ変わりがあるなら、前世はきっと私はお坊さんで、精進料理しか食べていなかったのではないか、ということです。だからその反動で今回の人生の前半は、思いっきり肉食をしてついにメタボリックになり、そして人生の折り返し地点の45歳で、前世でやっていた修行を再開したのかな、なんて思ったりしています。あくまでも想像ですが。

ただ、一番気付いたことは、ベジタリアンだからと極端に走ってしまったらダメだということです。この食生活をはじめてから、出された食事の中でたとえばヤキメシの中に小さく刻んだハムがあると、私はベジタリアンなんだから、とそれをスプーンでよけて残していました。また外食で皆と食事をすると、肉のない食事はほとんど無いということに気づき、それをいちいち残している自分にとても嫌悪感を覚えてきました。

私は食事のときの「いただきます」を子供にこのように言いなさい、と教育しています。「あなたの命をいただきます」。人は命をなげだしてくれた動物がいるから、それをエネルギーに変換させていただいたお陰で生きているのです。その命をいただいているということを理解させるために、命をいただきます、と言わせているのですが、そう教育している父親が、自分の主義主張でハムをよけて残している姿に、大きな罪悪感をいだいたのです。

そこで私が考えたのが、「プチ・ベジタリアン」ということです。ちょっとだけベジタリアンということですね。外食などで出された食事や弁当に肉類がはいっていてもそれは残さずにちゃんと食べる、ただ、バイキングや自分で注文のできるところでは取らない。こうすることで、とても心地いい食事ができるようになりました。なにごとも、ほどほどが一番です。

日本人はもともとベジタリアンに近い食事をしてきました。日本人の体はとても腸が長いらしいですが、これも植物を消化するためにそんな体になったそうです。ですから、私は本来の草食日本人にもどっただけなのかもしれません。

このメルマガで皆さんにベジタリアンになりましょう、と訴えているのではありません。
人間は「足ることを知る」という言葉を忘れ、お腹いっぱいでもまだ食べようとします。動物はお腹が一杯になれば他の動物を襲いませんが、人間は必要以上に殺してしまいます。

プチ・ベジタリアンになって強く思ったことは、やはり食事は必要な分だけいただくということ、食事をいただくときに、そこにある命に対して感謝をして食べること。これが最も大切なことではないかと思います。

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ぴあの屋ドットコム 石山 http://www.pianoya.com

ご感想をいただきました

Sさん:
いいですね!!
私もやってみようかな、プチベジタリアン
家族の食生活の鍵を握ってるのは私ですので、家族みんなで実行するのはとっても簡単です
ではでは、明日から実行しますね
旦那の体重10キロ減らせてみせます

Kさん:
やはり食事は必要な分だけいただくということ、食事をいただくときに、そこにある命に対して感謝をして食べること。これが最も大切なことではないかとということに、私も同感です。極端に走らず ほどほど 中道の精神で でしょうかね~

Bさん:
プチ・ベジタリアン・・大賛成です!
私は元々、お肉は食べないですが少しのハムだとか魚は食べます
プチ・ベジと小食を目指しています

Sさん:
プチベジタリアン賛成です!私は今から10年ほど前にマクロビィオティックを学び本当に共感できたので、自分の子供はマクロビィオティック的な子育てを実戦して、なんと只今13才双子の男の子を生まれてから薬というものは飲ませる事なく元気に育てる事が出来ました。絶対に、肉や魚がNGという徹底的に実戦した時期も何年かありましたが、あるとき大きな観点から見るとそれも不自然な生き方だな?と感じるようになり今はまったくピアノ屋まーちゃんさんのように食べざるえない場合は感謝して肉魚を頂き、その後の食事で血液をしっかり浄化出来る食事メニューでバランスをとっています。私は本当に食の大切さを沢山の人達に伝えたいので私流の穀物菜食をテーマにしたカフェのオープンを計画してます。ピアノ屋まーちゃんさんが血液が綺麗になると、もっともっと若返ってさらにパワーアップしちゃいますねそう考えるとますますプチベジタリアン楽しみですね

Kさん:
わたしも、ベジタリアン8年目です。
突然、動物食をやめられると、いろいろとバランスを崩し、体調が悪くなることが多いそうです。お気をつけ下さい。
舌に感じない、ナトリウムが、動物食には含まれているのに、その分の塩分を菜食のなかで摂られないと、よくないとか…。
わたしは、たまたま次女を出産した助産所が、玄米菜食の料理を出していたことから、妊娠中に、肉や魚がおいしくなくなる…という、思想とは別の方向から、ベジタリアンになりました。
何でも食べていた長女の時の妊娠よりも、次女の時の方がとても楽で、体重も5キロも増えず、楽なお産で、その後もスムーズでした。
菜食が日常であるほうが、日本人には適していると思います!

Aさん:
初めまして。アミはいい本ですね。私もあの屍骸を・・・の部分は印象的でした。
プチの考え方は、少し取り入れさせていただきます。

Oさん:
プチベジタリァン、これなら出来そう。
もともと肉は好きではなく、今でも出されれば、一口か二口。家で一人の食事は、殆ど肉、魚、なし。野菜サラダや、納豆、豆腐。それでも、痩せないのはお酒のせいかも。よし、プチ断酒しよう。

Zさん:
はじめまして。初から全て完璧にする事は続かないと思い、玄米からスタートしました。少量の漬物やお味噌汁でも満足で体重も落ちてきてますメンタル面もなんだかスッキリしてきました!私も「プチベシタリアン」を楽しみにながら続けていきます。

Aさん:
私も、プチベジタリアンになって、3ヶ月。いい感じです。
きっかけは、整体の先生のアドバイス。先生は、食事は、1日1回で、睡眠時間は、3時間くらい。そして、月に1回、プチ断食をするといいそうです。
まずは、生活習慣と運動ですよね。

Pさん:
昨日お客様が大勢いらしたのでカレーをつくりました。肉を少しづつ少なくしていこうかな、気づかないくらいに、いいかもしれない、良いことを教えていただいてありがとうございました。

Nさん:
いつも楽しく読ませていただいてます。りがとうございます。
今日のトピックに関係のあるHPを御紹介します。僕は菜食主義者ではありませんが、このページを見て、日頃見ることのない、でも本当は想像できていたであろう事実を目の当たりにしてショックを受けました。
これを見て以来、本当に命をいただいているんだなぁ と感謝して食べるようになりました。
<菜食のすすめ>
http://saisyoku.com/pics_killed.htm


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心の窓メルマガ版 16 「神様の日記」

神様の日記

神様はね
毎日あなたの日記をつけてるの
その日記はね
1日先のことをつけてるの
だから毎日起こることはね
神様が書いたとおりなの
だからそれでいいの

嬉しいことも楽しいことも
辛いことも悲しいことも
全部神様が日記に書いたとおりなの
だってあなたに成長してほしいから
あなたを愛しているから

神様はね
毎日あなたの日記をつけてるの
その日記はね
1年先のことをつけてるの
だからこれから起こることはね
神様が書いたとおりなの
だからそれでいいの

出逢うことも別れることも
生まれる日も帰る日も
全部神様が日記に書いたとおりなの
だって魂を磨いて欲しいから
あなたを愛しているから

神様はね
毎日あなたの日記をつけてるの
その日記はね
10年先のことをつけてるの
だからこれから起こることはね
神様が書いたとおりなの
だからそれでいいの

でもね
あなたが変わり始めたとき
神様は日記を書かなくなるの
もう大丈夫だから
あなたを信じているから

あなたが帰ってきたとき
神様は笑ってこう言うの
“ありがとう”をいっぱい浴びてきたね お帰りなさい・・・

神様は1日先の日記をつけている、という言葉はある17歳の女の子から聞いた言葉です。この女の子は小さいときに両親が離婚をし、母は仕事で帰りが遅いために妹の保育園の送り迎えから掃除、洗濯、買い物からお弁当まで全部一人でこなしてきました。たくさんの人から好かれ、中学時代にはクラブのキャプテンをし、バイト先での牛丼屋の全国スマイルキャンペーンで人気投票第4位。今は夜間高校で勉強しながら母を助けています。いろいろ辛いことがあったと思います。でもそれを自分なりに考えて、「神様はきっと日記をつけているんだ、それも1日先の日記をつけているから、なにが起こってもそれでいいんだ」、ということを子供のころからずっと思っていたそうです。

私はこの言葉からインスピレーションを受けて、このような詩を書きました。いずれはこれに曲をつけて出したいと思っています。私が作詩作曲をするときには、短時間で書くことがほとんどです。昨年発売したCD「ひとすじのくもの糸」の中で一番人気のある曲「伝えたいこと」の歌詞は、レコーディングの前日夜中1時に突然ひらめいて、1時間で書き上げました。「神様の日記」も夜中にガバっと起き出して10分で書きました。これも神様の日記に書いてあったことなんですね。「いつまでもイメージを温めてないで そろそろ書きなさい」というメッセージだと思います。

ここでちょっとだけ宣伝させてくださいね。私の作品集「ひとすじのくもの糸」(歌手:北城祐治、石山ゆか)は、パソコンの方だけですがこちらで一部試聴できます。http://www.pianoya.com/cd/cd.htm(心の窓講演会の試聴もあります)。
有線放送(USEN、キャンシステム)でもリクエストできますよ。夢は、私の曲が紅白で歌われることです。12月31日の予定はいつも空けているのですが、NHKからなかなか電話がかかって来ません。日記に書いてあればいいのですが・・・。

ぴあの屋ドットコム 石山

ご感想をいただきました。

Hさん:
こんにちは!今日送っていただいた「神様の日記」、とっても感動しました!いつも心の窓の配信の後は、皆さんからの反響で大忙しだろうな・・・と思いメールは遠慮させていただいてたんですが、この「神様の日記」の詩にあまりに感動したので、思わずメールしてしまいました(o^o^o)この詩がどんな歌になるのか、とても楽しみにしています

Oさん:
私のために神様が書いてくれたような日記。
ホントにそう思うことで、 苦しみや悲しみは
幸せな素晴らしいことに変わりますね。

Aさん:
私もこの娘さんのように幼少時代が一番苦労しましたが、今はとっても幸せですよ
その過去があったから今があるっていつも思っています。
小さい頃からこれだけ辛いことばかり起きているんだから、きっと大人になったら幸せになれると、そのことを胸に生きてきました。
最近、人との出逢いとか運命とか世の理とか、全てが繋がっているような気がしています。
神様の日記、とても心に染み渡る詩です。

Sさん:
これ、最高ですね!!!
すばらしい
最初の4行で、すごく興味をもち
誰がかいたんだろう、ってわくわくしてました
石山さんの作詞ですか~
すごく気に入りました
わかりやすくて、的をついていて
人生の全てが集約されてますね。
本当に素敵です
まさに、この詩は生まれるべくして誕生した
神様からのメッセージでしょうね。
ひとすじのくもの糸も素敵でした
私、5枚購入しちゃいました
神様の日記にメロディがついて
バージョンアップする日を楽しみにしています。
もっともっと多くの人に知って欲しい真実ですね
最後の一言は笑えました
石山さんは神様からの信用があるので
日記にはかかれてないかも
応援してます

Gさん:
神様の日記!!
本当に人生は魂の学びの旅ですね。
苦悩困難にある人も
これで皆んな救われますよ。
素晴らしいですね。!!
是非、曲をつけて出して下さい。

Sさん:
お疲れさまです。 
日記~~~久しぶりで懐かしい響きです。
子供の頃の宿題か遠い昔の初恋の頃を思い出しました。
神様は私にも日記を書いてくれているのでしょうか?
人が生きていく事
一つ一つの人生これはストーリーですよね・・・。
私も生きていく中で辛い事や大変な事たくさんあります☆
泣きたい時もありました。
Butある方の講演会で
(人は必ず死にます。絶対にどんな人も死にます。だから生きてる今人を思いやる優しさや思いやりの心を育てましょう自分さえ良ければいいなんていう考えは捨てて下さい)
この一言で私は変わりました
この言葉を聞いた瞬間・・・
初めて自分自身を振りかえり反省し
いつの間にかあふれ出した涙を止められなくなっていました。
そして決心したのです
自分を変えよう
他人は変えられないけれど
自分は変えられる
だから・・・
自分が変わろう
人間誰でも長所と短所があるけれど
人の欠点は見ない
人のいいところだけを見ていこうと決めたら
楽になれたのです
その方との出逢いこそ私の人生を変えた一瞬でした。
神様にありがとうございます、です。

Hさん:
神様の日記・・・
本当にその通りだなと思いました。
なんか、とっても前向きになれてとても素敵ですね・・・
辛いことがあっても、きっと良いことがある・・・うん。とても元気になれますWWW
良い詩をありがとうございます!!!!

Mさん:
おはようございます。何時もメールありがとうございます。
8月17日に頂いたメール“神様の日記”に凄く感動しました。
その日が偶然にも私の49歳の誕生日で、とても素敵な神様からの誕生日プレゼントでした。
49年間には楽しい事泣きたくなる事、悔しい事色々あったけど
これも生まれた時から決まっていた事なんですね。
どんな時も人生を諦めないで前向き頑張っていたら 人生が大きく変わるチャンスのプレゼントを頂きました。
それも大好きなお友達からでした。
本当にに素敵なメールありがとうございました。o(^-^)o
これからも楽しみにしております。


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心の窓メルマガ版 15 「月光の夏」

月光の夏

スペシャルオリンピックスという知的障がい者のためのオリンピックの世界大会が2年ほど前に長野で開催されました。そのトーチランが全国各地で開かれたのですが、京都でのトーチランにボランティア参加したときに、第1区を裏千家15代家元が走られました。準備体操で戦時中の海軍体操をされていたのがとても印象的でしたが、実は家元は元特攻隊員だったことを知りました。水戸黄門役で長く出演していた俳優のN氏と同じ部隊だったそうで生還したのはこのお二人だけだったそうです。

以前家元はこのようなことを語っていました。特攻隊の部隊の中で家元は茶をたてました。それを皆でいただきながら隊員の一人が言いました。「戦争が終わったらおまえは千家の跡取りとして偉くなっているだろう。もし生きて帰ってこられたら、おまえのことなんか知らんといわず、また茶をたててくれよな」。明日死ぬと分かっていても、まだ生きる望みを捨てていなかったのです。隊員たちは茶をいただき、親や恋人に手紙を書いたり、髪やつめを送ったりしていましたが、しばらくすると沈黙になりました。それぞれ思うことがあるのでしょう。全員が兵舎を飛び出し、夜空に向かって叫びました。みんな同じ言葉だったそうです。「おかあさーん!」

「月光の夏」という映画はご存知でしょうか。まもなく終戦記念日でもありますので、今回はこのお話しましょう。
佐賀県鳥栖市の小学校へ二人の若い特攻隊員が走ってきました。「自分たちはピアニストを目指していた芸大の学生だったのですが、今は特攻隊の隊員として明日出撃しなければなりません。死ぬ前にどうしてもピアノを弾きたくて、でもどこもオルガンしかなくてこの国民学校に唯一ピアノがあると聞き、基地からここまで走ってきたのです。どうかピアノを貸してくださいませんか?!」

それを聞いた音楽担当の女性の先生は1冊の楽譜を持ってきました。ベートーベンの月光ソナタです。この小学校にはドイツ製のフッペルという素晴らしいグランドピアノがありました。先生は空襲のたびにバケツを持ってこのピアノを守っていたのです。隊員は楽譜をピアノに置くと、1楽章2楽章と弾きつづけました。そして第3楽章が終わったとき、生徒たちから拍手が起こりました。

生徒の一人が声をかけました。子供たちにとって絹の白いマフラーをした特攻隊の隊員は憧れだったのです。「僕たちもあとに続きます!」。しかし、特攻隊のお兄さんはこう答えました。「君たちは行かなくていい。君たちが死ななくてもいいように、お兄さんたちが死んでいくんだよ。君たちは戦争が終わったらこの日本を立て直すんだ。いいね」。そうして翌日、飛び立って行ったのです。そう、今の70歳代くらいの人たちがこのとき小学生だったはずです。日本の高度成長を担ってきた人たちです。多くの若者の犠牲の上に今の日本があるのです。

鹿児島の南に知覧という町があります。その特攻基地から飛び立つ戦闘機に近くの女学生が桜の枝を戦闘機に差して見送りします。飛行機が飛び立つと空から桜の花がヒラヒラと落ちてくるのです。そうして羽を3度左右に振ります。これが「祖国よさらば」の合図です。ちょうど富士山とそっくりな形の開門岳が祖国日本の最後の姿なのです。それに別れを告げて、6000人もの若者が沖縄の海に散っていきました。

しかし、視点を逆にしてみましょう。ゼロ戦が突然突っ込んできて亡くなってしまったアメリカ艦隊の若者は7000人もいたそうです。特攻隊員と同じくらいの若者です。その子たちはお母さんや恋人にさよならをいう時間もなかったことでしょう。もちろん手紙を書く時間もありません。どちらが悲惨なのでしょう。いやどちらも悲惨です。戦争は悲しみしか残りません。

知覧特攻平和会館に何度か行きましたが、そこでいろいろなエピソードを知りました。
特攻隊の教官だった年配者の一人は、教え子が続々と出撃していく中で「必ずオレも後に続く!」と約束を繰り返していました。しかし、重要な職務を持ち妻と子二人の家族を持つ隊長には出撃命令は出されませんでした。何度嘆願書を出してもだめです。逆に妻は夫に死なないで欲しいと何度も説得を繰り返しました。しかし、夫の決意があまりにも固いことを悟った妻は、「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」と遺書を残し、3才と1才の女の子を連れて入水自殺してしまいました。引き上げられた妻子の遺体のそばで号泣した教官は再度血書嘆願を出しやっと出撃を認められたのです。教官の遺書には「母とともに消え去った幼い命がいとおしい まもなく会いにいくからね お父さんの膝でだっこして寝んねしようね それまで泣かずにまっていてください」と書かれていました。教え子との約束、家族を守る責任、そんな葛藤の中でこの教官は苦しんだことでしょう。
もう一つ忘れられない遺書があります。早くに母親をなくし継母にそだてられた若者は、一度も「おかあさん」と呼んだことがなかったのです。「でも本当に感謝している。その気持ちを伝えたことがなかった。明日散っていく命、最後にお母さんと呼ばせてください、おかあさん おかあさん おかあさん!」

私は講演でよくこんな話をします。「今の仕事で成功したとき、いや自分の決めた目標を達成したときには鹿児島に旅行にいきましょう。そして枕崎の少し北にある知覧特攻平和会館を訪ねてください。この日本を守るため、いや愛する人を守るためにどれだけの若者が死んでいったのか、そして今の時代に生まれた自分がなんと幸せなのかが分かると思います。そしてそれに気付いた時、自分は何をしなければならないかという答えが出てきますよ」。 

ぴあの屋ドットコム 石山

※ピアノソナタ「月光」による朗読劇「月光の夏」を電子書店パピレスで購入(500円)できます。(こちらから携帯電話三社の購入ページに飛ぶこともできるようになっています)
http://www.papy.co.jp/act/books/1-110987/

『ピアノソナタ「月光」による朗読劇「月光の夏」』との出会いについて、ブログを書かれている方がおられますのでご紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/tkorganic/e/57ee41aa6607276cba3a4f6342b95e4b

ご感想をいただきました。

Oさん:
特攻隊で散っていった若い兵士。
多くの犠牲の上に、私達の今の平和があるということ。
深く心に刻み、忘れることなく
今を生きようと思います。

Sさん:
ありがとうございます。
涙がとまりません

命をかけて今の日本を残してくれた人たちが
居ることを忘れてはいけませんね・・・
教えられることがたくさんありました。
知覧特攻平和会館へいつか行ってきます。
いつも本当にありがとうございます。
それにしても、ろんなところで
ボランティアをされていますね・・・
そのことにも感激します

Kさん:
このお話は、以前聞いたことがあります。
悲しいお話、戦争の惨さ平和のありがたさ、いろんなことが頭の中をめぐりました。
改めて文字になったものを、何度か読み返しながら考えるとまたいろんな言葉が心の中に刺さってくるようで、辛いです。
この時代の若者たちに誇れる世の中にしなければ、報われない気がしますよね。
せめて、今の平和に感謝して大事に生きて生きたいと思います。

Bさん:
今日からお盆ですね。
皆さん個々にお仏壇・お墓の前で手を合わせることと思います。
日頃の無事に感謝する、とても大切なことです。
でも、ぴあの屋まーちゃんさんの今日のこの日記を読んで思いを新たにしました。
少しでいいから視野を拡げていきたいなと。
日本という国はもちろんのこと、世界各国がそれぞれに、幾多のそれこそ数え切れないこれまでの人達の貢献・犠牲の上にあっての今の恵まれた状況なんだということ。 決して、独りよがりではあってはならない。
この時期にまさしくマッチしたいい話、ありがとうございます。

Aさん:
知覧の兵隊さんの遺書読みました、涙が止まらず、ぼやけて
先が読めなくなった事を今でも思い出します。
私の父親は昭和20年11月フイリッピンで戦死しました、それも終戦後4ヶ月経過していたのですから、最後まで戦う、何のため?日本を守るためです。
自分の子供の顔も知らず、抱いてやることもなく、つらかったやろうと思います。

Oさん:
今から9年前に子供達が夏休みになるのを待って知覧の特攻平和会館に家族4人で広島から車で行きました。
今でも知覧でのあの時の衝撃は忘れられません。
毎年夏休みになると思い出していましたから、まーちゃんのお話しは私の感じた同じ思いがダブって伝わって来ました。
あれから暫くして私個人の人生のどん底が始まり、出口のない長いトンネルからやっと出られたのは、少なくとも戦争のない平和な時代に感謝出来たからだと思います。
その原点は9年前の知覧特攻平和会館での衝撃でした。
夏休みになると思い出します。
知覧に行き、平和とは、今の日本とは、家族とは何か、命とは、戦争とはなんだったのか考えてみて、そこから生きるエネルギーを得る事が出来れば、彼達も救われると思います。

Sさん:
いつもメールをありがとうございます。
読みながら泣き出しました。
今の生活に「本当に感謝」しなくてはいけませんね。そして、今、この気持ちを大切にします。
私にでも出来るかしら?
何を、どうやれば良いかしら?


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