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心の窓 46.スペシャルオリンピックス

スペシャルオリンピックス

世界にはオリンピックが3つあります。

一つは一般的なオリンピック。そして身体障害者のためのパラリンピック。

そして日本ではほとんど知られていなかった知的障害の方のスペシャルオリンピックス。

2005年2月に、アジアで初めて長野県でこのスペシャルオリンピックス世界大会が開かれました。

私も、京都でのトーチランのボランティアに参加させていただきましたが、

このなかでたくさんの気付きをいただきました。

このスペシャルオリンピックスの知名度がぜんぜんない時代から、

全身全霊を掛けて、この活動にかかわってこられた方がおられます。

名前は申し上げませんが元総理大臣の奥様です。

その方の講演を、長野世界大会の1年ほど前に聞き、私は大変感動いたしました。

その講演内容の一部をここにご紹介しましょう。

私がこの「スペシャルオリンピックス」の活動を始めたきっかけは、

今から13年前、地元熊本の新聞を読んでいましたら、

大きな記事で「ともこちゃん、スペシャルオリンピックス世界大会で銀メダル獲得!」

と記事が出ていました。私はパラリンピック以外に、

もう一つオリンピックがあることをそのとき初めて知りました。

ともこちゃんはわずか10歳、ダウン症で難聴。

ほとんど耳は聞こえない状態でありながら、

床運動の体操で銀メダルと獲得したことが分かりました。

私はびっくりしました。

そして、その体操指導したボランティアの先生の談話が載っていました。

「スペシャルオリンピックスという競技会は、ベストを尽くして途中であきらめず、

最後まで頑張り抜いた選手はみんな勝利者で、表彰台に上がれるんです」。

それに私は心を惹かれました。

そしてその方をお招きして講演会を行いましたが、

そのときにある牧師さんのお話が出てきました。

「どんなに医学が進歩しても、

人間が生まれ続ける限り、

人口の3%前後は障害のある子供が生まれる。

それはなぜかと言うと、

その子の周りの人たちに、優しさ、思いやり、を教えるための

神様からのプレゼントだから・・・」

という話を聞き、私は目からウロコの感動を覚えました。

それまで、障害者の方を見たら、気の毒に・・・、

不運にしてどうして障害をもって生まれてしまったのかな・・・、

などど、神様は不平等だ、片や元気ですくすくと五体満足に育つ子供もいれば、

ほんとに自力ではなんにもできない子供も必ず生まれてくる、

なんて神様はむごいことをなさるんだろう、と恨めしく思ったりしていました。

そういう弱者といわれる人たちに、私は同情心しかありませんでした。

ところが、その牧師さんのお話はまったく別の視点から

私に気付かせてくださいました。

そして、私が気付いたことは、

あぁ知らず知らずに私は、大変傲慢な人間になって、

そして傲慢な人間が作った物差しで、勝手に人様を判断していたということです。

実は、ともこちゃんは予選で一番成績が悪かったんです。

なぜならば、耳が聞こえないために、音楽が鳴っても踊りだせずに、

高い天井を見つめてボーっと立っていたんです。

その彼女を見て、観衆がみんな立ち上がって、声援を送り、

ようやくともこちゃんは気付いて踊り始めたんです。

それで、予選で落ちたと思っていたら、決勝に出られることが分かりました。

コーチが、どうして一番だめだったともこが出られるんだろう、と訊いてみたら、

「スペシャルオリンピックスでは、予選で落ちる選手は一人もいないんですよ。

予選はクラス分けといって、同じレベルの子で競技をする、そのための予選なんですよ」

といわれ、よーし、と頑張って銀メダルを取ることができたのです。

つまり、スペシャルオリンピックスが一番大切にするのは、

ナンバー1(世界記録を出す)というものではなく、

一人一人が自分の能力、可能性に向かって、勇気をもって挑戦し、

自分のベストを尽くした人、それこそ勝利者であり、価値観だということを知って、

私はまた感動してしまったのです。

最近はやっている歌「世界で一つだけの花」。素晴らしい歌詞ですよね。

ナンバー1になれなくてもいい、一人一人が、一生懸命自分らしく生き、

世界でたった一つの花を咲かせる、そのことに一生懸命なればいい、という歌詞です。

とっても素敵ですね。

私たちの活動は、そのように、選び抜かれたトップのアスリートたちを育てるのではなく、

全ての知的障害のある人たちにチャンスを与え、

その子が精一杯頑張り、それをみんなが認める、

そしてその子がどんどん成長していくのをみんなが喜ぶ、

という活動を私たちはしております。

私たちのスペシャルオリンピックスだけ最後に複数の「S」が付いています。

オリンピックやパラリンピックは「ク」で終わっています。

これは、世界大会をする団体だけじゃないからです。

年間通して継続的に、日常生活の中で毎週、地域のボランティアの方々を通じて、

今日の土曜日も今この時間に行われて、いつもいつも行われている、

だから「S」が付くんです。

この活動でどんどん成長していくんですが、実は、周りの人も変わってくるんです。

私もその一人です。

最初は知的障害者のことを、かわいそうと思い、

一方的に「なにかしてやろう」という、たいへん傲慢な気持ちを持っていました。

ところが彼らと楽しく一緒に触れ合っていくうちに、

「知的障害者はこっちのほうだ」ということが分かってきました。

彼らはほんとうに純粋な魂を持ち続けて、だれよりもやさしい。

そしていたわりの心が人一倍強い。

そうしますと、知的障害者という言葉を作ったこと自体が

まちがいであることに気付きました。

それは私たちの物差しで勝手に、知的障害者という言葉を作ったんです。

でも、別の物差し、例えば、やさしさ、思いやり、どっちが人間らしいか、

という物差しではかった場合、彼らのほうが、ずっと上等な人間なんです。

あるがままを受け入れる、やさしさ、誠実さ、私たちはとてもかなわない。

彼らと触れ合うことで、人間としてとっても大事なことを学んで、

私たちのほうが成長する、

魂を彼らに磨いてもらっていると思っています。

こんな素晴らしい活動だから日本中に広めて、

かかわった人がみんな、やさしく和やかになって、だれも認め合って支えあう、

そんな社会になったらどんな素敵だろう、そう思ってこの活動を続けています…。


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心の窓 45.ありがとうと言われる生き方

ありがとうと言われる生き方

私の尊敬する社長さんのお話です。N社長とでもしておきましょう。

この会社は1999年の創業依頼、創業3年目から、

会社の売上の中から社会貢献として寄付しています。

また社員や、そこにかかわる代理店もその理念に賛同して、

世の中の弱者と言われる人々や団体に全員参加型の社会貢献をやっています。

創業6年目には、3億円にも達する寄付を行っています。

毎年、業績が上昇している会社で、それに応じて毎年寄付額が億単位で増えていっているのです。

会社というのは社会に役立つ存在でないといけないというのは当然だと思いますが、

それを実際に実践している会社と言うのは、なかなかありません。

N社長が、寄付先の児童養護施設で講演をすることになりました。

その養護施設は、0歳から18歳まで200名ほどの子供たちを育てている施設です。

そこでびっくりするような話を聞きました。

親からの虐待、性的暴行、そして母親が恋人と駆け落ちするために

自分の子供をこの施設の前に放置して、リュックに「この子を育てられなくなりました」という

手紙を残していなくなってしまう、など考えられない出来事が起こっているのです。

そんな子供たちがそこで暮らしている・・・。

なんと情けない時代になったのでしょう。

さて、N社長がその施設で講演をする際、園長先生がこう言ったそうです。

「子供たちは、一番愛情をそそいで欲しい親と別れて暮らしています。

心に傷を負っています。今までいろいろな方が講演にこられましたが、

ガヤガヤとまともに聞いていません。どうぞこらえてくださいね」

N社長は、いいですよと答え、そして講演が始まりました。

そして社長がある言葉を発したとたん、子供たちは一瞬シーンと静かになりました。

社長はこういったのです。

「君たちは幸せじゃないか!」

「自分は一番愛して欲しい親から捨てられたんだ、世界一不幸なんだ、と思っているだろう。

さきほど、園内を見て回ったけど、食堂ではおいしそうなハンバーグを焼いていたよ。

君たちの今日の夕食はハンバーグなんだね。

でも、世界中には1杯の牛乳を飲めずに死んでいく子供たちもたくさんいるんだよ。

今日は台風で大雨が降っているね。

世界中には、家も屋根もなく橋の下で住んでいる子供たちもいるんだよ。

君たちは親に代わって育ててくれているボランティアの職員さんがいるんだね。

世界には、一人で生きているこどもたちもたくさんいるんだよ。

君たちは、どうして「ありがとう」と言わないんだい?

“ご飯が食べられてありがとう”

“屋根があってありがとう”

“職員さんありがとう”

君たちが毎日毎日「ありがとう」と言っておおきくなれば、

大人になったとき、回りから「ありがとう」といわれる人間になるんだよ。

ありがとうといわれる立派な人間になって、

みんなで協力しあって、この施設を助けるんだよ。

建物がボロボロですきま風で冬は寒いだろう。

不景気で寄付が減って建て替えもできない、と文句を言う前に

ここの卒業生はたくさんいるんだろう?

企業の寄付ばかり当てにしないで、自分たちで何ができるのか、を考えなさい。

もちろんおじさんもこれからも協力していくけど、自分たちには何ができるのか、

よく考えるんだよ。」

こういって、講演が終りました。

子供はその大人が本物かどうかを見抜く力を持っています。

高学年の女の子たちは泣き出して、社長が帰るとき、

「おじさんまたきてね!」と雨の中を手を振って見送ったそうです。

そして、なんと子供たちは立ち上がりました。

自分たちでチャリティーコンサートを開いて、それを施設の建て替え費用の一部に

当てたのです。

私は、ケーナという笛をもって賛助出演もしましたが、

そのコンサートでは、子供たちの賛美歌や演劇がありました。

学校の学芸会などでは、ふつう子供の演技には照れなどがあったりしますが、

ここでの子供たちの表情は真剣そのもの。

“今を生きる”をいうことを実践しているんです。

つまり、今自分に与えられた役割を一生懸命にこなす、ということをしてるんです。

スポットライトがあたった子供たちの目はキラキラと輝いています。

そんな姿をみて、私は涙が止まりませんでした。

もう一つ気付いたことは、その観客席にビデオカメラは1台もなかったのです。

ふつう、親が自分の子供だけをアップにビデオを撮るはずです。

つまり、この子たちには、本当に親がいないんだ、ということを再確認させられたわけです。

そしてついに、この施設の建物の建て替え工事が始まりました。

わずかな金額であっても他力だけではなく自力でも役に立ったんだという

自信と誇りを子供たちは感じたことでしょう。

大人のたった一言が、子供の心を変えるのです。

この社長は立派な経営者でありながら、私は素晴らしい教育者ではないかと思っています。

ここで、その施設の子供たちが書いた作文をご紹介しましょう。

■寒う~

 どこから風が吹いてくるんや

 戸がちゃんと閉まらんからな

 壁のすきまからかな

 隣の子が布団とるからかな

 やっぱ寒いな

■淋しい 淋しい 何か、いやや

 冬休みになったら ホームや園の仲間がたくさん家に帰っていく

 私には 帰るとこも 行くところもない

 会いに来てくれる人もない

 皆にバイバイした後 トイレの中で泣いてしまう

 私はどうやって生まれてきたんやろ

 それを考えたら 涙ばっかり流れる

■ホームでケンカした

 外に出たら 真っ暗やった

 先生 心配して来てくれたけど

 ホームに帰りたくない

 だって 又ケンカしてしまう

 でも

 どこにもいくとこない

 ホームの先生と 話したい

 「あのな」と何回も声だしたけど

 忙しそうで・・・・・

 話せんかった・・・・・

 1日でもええから

 一人でおりたいな

■お酒ばっかり飲んでた

 おやじが死んだと

 ホームの先生から聞かされた

 何でやろ、涙も出てこんかった

 顔も出てけーへん

 だって このホームに来たん

 3歳くらいのときやったから

 あんまり何も覚えてない

 ただ、おやじがあばれて

 家がぐちゃぐちゃになって

 おかんと俺は、たたかれたり蹴られたりした

 その後おかんは出て行って

 帰らんかったことだk覚えてる

 でも1週間くらいしてから

 テレビ見とったら

 急に悲しくなって

 涙がとまらんかっら

 俺、一人ぼっちに

 なったんや

■幼い頃は特に深く考えることもなく、園で楽しく過ごしていた。

 中学・高校の頃は、どうして自分は普通の家の子じゃなかったのか。

 限りなく低い確率の方へ選ばれたのか。

 もし生まれてこなかったら、こんな事に悩む必要もなったのに、

 とひたすら自分の人生を呪っていた様な気がする。

 大学入学と同時に、外で一人で生活を始めた。

 自由を得ると共に責任が伴う事を学び、

 楽ではないが、その分自立の意識は高まり、

 かなりの充足感が得られた気がする。

 そして、園で育ってよかったと思えるようになった。

 どんな境遇で生まれ育っても、

 自分以外の何ものでもなく、

 この世に生まれてこなければ良かった子なんか一人もいない

 と思えるようになった。

 自分を生んでくれた母に感謝する。

子供の心はこのように成長していくんですね。

自分を捨てた母親を恨むのではなく、最後には“自分を生んでくれた母に感謝する”

という気持ちになっているのですからね。素晴らしいことです。

先ほどの社長さんの話に戻ります。

この社長は戦時中に九州の旧家に生まれ、小さい頃にはお金に不自由なく育ったそうです。

でも、5年生になったときに、人のいいお父さんはある人の保証人になってしまって、

財産がそっくりなくなってしまいました。

家中の家具に赤紙(差し押さえ)が貼られ、突然貧乏の生活が始まりました。

N社長が中学校に行く頃にはますます生活は厳しくなり、

学校にお弁当でさえ持って行けなかったそうです。

お昼になり、皆がワイワイと弁当を広げ始めたとき、

N社長(N少年としておきましょう)はたった一人、本を一冊もって教室を出て、

運動場にゴロンと寝転んで、本を読んで勉強していました。

ときどき、それに見かねて担任の先生がパンと牛乳をもって

運動場まで差し入れにきてくれました。

その時先生はこういいました。

「腹へって辛くないか? でもおまえ、あんまり辛そうな顔をしていないな。どうしてだ?」

そしてN少年はこう答えます。

「先生、ボクは我慢できます。大丈夫です。

でも弁当を持たせやれない母は、ボクよりも10倍も100倍も辛い思いをしているはずです。

ボクが辛い顔をしたら、もっと母を苦しめることになる。

いつもからっぽのお櫃をみて、今日もご飯がない、明日もご飯がない、

と、母が台所の隅っこで泣いている母の姿をよく見ています。

そんな母にむかって、文句言えるわけないでしょう?

ボクさえ我慢すればいいのです。ボクは腹が減って辛いのではない。

たった一人、教室を出て行くときの気持ちのほうが辛いんです」

こうして、こういう環境で育ったN少年は、心が"弱者”の方を向くようになります。

いままでは裕福だった自分の母親が弱者になってしまったのですから・・・

また、N少年のお父さんも、N少年がまだ3~4歳の頃から

いつもひざに座らせて、耳元でささやいていたそうです。

「Nよ。お前は死ぬぞ・・・。N家は短命だから40才で死ぬぞ。

おまえの葬式に、Nさんありがとう、あなたのおかげでいい人生が送れました、と

日本全国から集まった何千人の人たちの行列ができるかどうか、

1本の線香と一粒の涙、そしてNさんありがとう!

こういってくれるかどうか、これがお前の生き様なんだぞ。」

この言葉を子供のころから何千回聞かされた分からない、とN社長は語っています。

ありがとうといわれる人生。人から喜ばれる人間になること。

これが人間の生きる意味なのかもしれません。

N社長はいつも言います。

「人間は、自分がいつか死ぬということを忘れているから、悪いことを平気でしてしまうんだ。

どうせ、みんな必ず死んでしまうのだから、

ありがとうといわれる生き方をしたほうがいいんだよ。

そうと気付けば、すぐに実践をしなさい。

死んでもあの世には何も持っていけないが、

ありがとう、という感謝の言葉だけは持っていけるからね・・・。

そして魂を磨くために、人は生きているんだよ・・・」


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心の窓 44.事実は小説よりも・・・(2)

事実は小説よりも・・・(2)

貴様飲め!

オレのおじいちゃんは戦争末期、南方にいた。

ジャングルのようなところで衛生状態が最悪だったらしい。

当然マラリアだのコレラだのが蔓延する。

おじいちゃんの部隊も例外でなく、バタバタと人が倒れていったそうだ。

ただ、その頃には治療薬も開発されていて、

それを飲んで命の永らえた人も多かったらしい。

しばらくしておじいちゃんも期せずして高熱にうなされるようになった。。

病気に感染したのだ。

一方でおじいちゃんの部下の一人にも同じような症状が襲った。

二人とも薬を飲めば助かる程度のものであったらしいが、

なんとその部隊には残余薬が一つしかなかった。

部下は「あなたが飲んでください、あなたがこの部隊の指揮官ですから」

と、しぼりだすような声で言ったらしい。

立派な部下をもっとおじいちゃんは幸せな人間だったとおこがましいけどオレは思う。

しかし、おじいちゃんはたった一言こういったらしい。

「貴様飲め!」

おじいちゃんはその後まもなくして死んでしまった。

この話は、つい最近死んだおばあちゃんから何度も聞いた。

薬を飲んで生き残って帰国した兵隊さんは、

その後おばあちゃんを何かにつけ助けてくれたらしい。

オレも一度だけお会いしたことがある。

まっすぐで立派な男だった。

おじいちゃんも素晴らしい命を救ったものだ。

おばあちゃんの口癖は

「貴様・・・・・って、いい言葉ね・・・・・」

だった。

おじいちゃんの死後、

もう何十年も経つのに、毎日仏壇のおじいちゃんに話しかけていた。

そして、眠ったまま死んでいった。

明治の人間はすごい。これはいつもそう思う。

私(石山)の鹿児島に住む母方の祖父は、村役場に勤めていました。

戦争には召集されませんでした。

祖父の仕事は、召集のあった若者に“赤紙”、

いわゆる召集令状を作成して発送する任務をおっていたのです。

鹿児島のいなかのことですから、赤紙に書かれた名前はみな知った人間ばかりです。

戦争が終って、続々と帰ってくる兵隊さんがいる中で

ついに村の若者一人が戦死したという情報が祖父の耳に入りました。

祖父は、自分の出した赤紙で出征し、戦死させてしまった・・・と責任を感じ

村役場を辞めてしまいました。

戦争は、あらゆる人たちの心を傷つけ、悲しみしか残しません。

二度と起こしてはならないと思います。

■最後まで息子を案じた母に勇気をもらう

小学校の頃、いじめられていた。

石を投げられる。殴られる。

転校する時、担任が一言。

「君にはお別れ会なんて必要ないよね?」

中学校の頃。回りは小学校と同じメンバー。

暴力がつづくと思いきや、とことん無視される。

休み時間は寝たふり。

給食は席をくっつけるが、誰も話に入れてくれない。入れない。

やることがないので、勉強を一生懸命やる。

人の10倍はやっただろう。そして学年で20番の成績を取れた。

あれだけ勉強して20番。

高校生の頃、普段は酒を飲まず、とても優しかった母がめずらしく酔っていた。

抱き上げた俺に向かって泣きながら言った。

「ごめんね・・・・産んでごめんね・・・・」

どんな言葉よりも、辛かった。

そんな俺にもはじめての友人ができた。

高校2年の始業式。

前の席だった奴が話しかけてくれた。うれしかった。

そいつはいつも面白くて、いつもクラスの中心にいた。

それで、俺とも話してくれた。ほんとにうれしかった。

あるとき、トイレの個室で用を足していると、外で話し声が。

男1「おまえさあ。あいつと仲良いよな。なんでよ?」

男2「お前と性格あいそうにないのにな。」

そして、友人の声

「いや、一応席近いしさ。話しかけないとまずいと思ったのよ。

ほら、俺ってクラスの人気者じゃん?

誰にでもやさしくしとかないと。ま、それでも友達にはなれないけどね」

トイレから出られなかった。

俺はなんで生きてるんだろう? 何の為に生きているんだろう?

・・・・・・もう死にたいよ。

ちいさな会社に入った。

運送会社の事務だ。

会社に入って3年。

いまだに使えない奴扱いの俺に、唯一笑顔を見せてくれる娘がいた。

その年に入ってきた新人の女の子だ。

「おはようございます」の一言、その笑顔が俺を癒してくれた。

「変われるかもしれない」

すでに人を好きになることを諦めていた俺がそう思った。

告白した。

いろいろ考えて・・・・・何度も練習して・・・・。

それなのに言えたのはたった一言。

「す・・・・好きなんです。付き合って・・・・・・・下さい・・・・」

自分でも情けなくなるくらいしどろもどろだった。

「ごめんなさい。今は付き合うとか考えられないんです。

いろいろとやりたいことがあるんです。」

彼女はそういった。

数ヵ月後、彼女は寿退社した。

「お前、この仕事向いてないよな? 自分でも分かるだろ?

辛いだけだぞ? こんな仕事続けても。

まだ若いんだから転職でもしてみたらどうだ?」

あるとき、上司から告げられた。

俺は馬鹿だけど、上司が何を言いたいのかは分かった。

次の日、辞表を出した俺に上司はうれしそうに「お疲れさん!」

その日、夜遅くまで講演で時間を潰した。

家に帰った俺に、母親がいつもの笑顔で「お疲れ様」。

数ヵ月後、母親が癌だと告げられた。

末期の胃癌だったそうだ。

もう、助からないらしい。

いつもの優しい母親。

目を見ることができなかった。

1ヶ月ほどたった日、母親がかすれた、それでも優しい声で言った。

「もう助からないんでしょ? 分かっているのよ」

俺は黙ってしまった。

母親はいつものように優しい声で

「どう? 仕事は見つかりそう?」話題を変えた。

俺は我慢しきれずに泣いてしまった。

母親はずっと俺の手をさすっていた。

数少ない親戚が久しぶりに集まった。

「あの人は本当に良い人で・・・・」

「惜しい人を・・・・」

どこかで聞いた台詞であふれていた。

俺は淡々と喪主をつとめた。

骨壷は思っていたよりも軽かった。

家に帰った俺は机の上においてあったノートを手にとった。

母親の病室の、机の下から出てきたノートだ。

日記だった。

入院してから1ヶ月くらいから、死ぬ2、3週間前までの。

その日記は父親との会話でつづられていた。

2、3日分の日記を読んで、泣いてしまった。

書かれているのは全部俺のことだった。

最後のページから数日前の日記。

その日記だけ、俺宛だった。

○○、あなたにはずっと謝りたいことがあったの。

○○がいじめられていたこと、ずっと知ってたの。

でも、私は弱い人間だから、ただ優しくすることしかできなかった。

学校に行こうかとも思ったけど、行けなかった。

いつも○○が優しい顔で「今日も楽しかった」っていって誰にも言わずに

頑張ってる○○を裏切れなかったの。

覚えてる? 高校2年の頃。私は酔ってあなたにいってしまったね。

「産んでごめん」って。

本当にごめんなさい。あのときは本当にそう思ったの。

あなたがこんなに辛い思いをしているのは私が産んだせいだって。

でも、あなたを産んで良かった。幸せだった。

だから、あなたにも幸せになってほしい。

あなたなら幸せになれる。お願いだからなって。

俺は驚いた。

あそこまでつぶれていた母親が、そんなこと覚えてるとは思っていなかったから。

ずっとそのことで悔やんでいたんだと思った。

優しくともすこし影のある笑顔はたぶん、その後悔からきてたんだろう。

号泣した。どこからこんなに涙があふれてくるんだろう?

死ぬことを考えていた俺は思った。幸せになろうと。

母の愛は、まるで太陽のように見返りを求めない無償の愛なんですね。

人生でつまづいたときには、子どもの頃に

「母親からしてもらったこと」

「母親にしてあげたこと」

「母親に迷惑をかけたこと」

この三つをしっかり思い出して反省すると大きな気付きと進歩があるようです。

それができれば、次は父親との関係の反省、

そして、兄弟や知人、など自分にかかわる全てのことに対する反省を

やることで、今の自分を作っている全てが、

「原因」と「結果」としてつながっていることが分かります。

でもすべては「母親」との関係がまず一番なんですね。

■流産した妻に勇気を与えた少年

「もう死にたい・・・・。もうやだよ・・・・・。つらいよ・・・・・」

妻は産婦人科の待合室で人目もはばからずはいていた。

前回の流産の時、私の妹が妻に言った言葉・・・・。

「中絶経験があったりすると、流産しやすい体質になっちゃうんだって」

あまりにも人を思いやらない言葉に私は激怒し、それ以来妹夫婦とは疎遠になっている。

妻は口には出していないが、もうすごく辛い思いをしていたと思う。

だから、今日までなんとか二人で頑張ってきたが、3度目の流産。

前回も前々回の時も、「また、頑張ろう」と励ましてきたが、

励ます言葉が妻にプレッシャーをかけるような気がして、何も言えなかった。

いや、そうではない。今考えるとおそらく、3度目の流産を告げられて

子供がいない人生を私は模索し始めていたんだと思う。

私は冷酷な動物だ。情けない。

「ごめんね・・・・。でももう私頑張れないかも。もう駄目だと思う」

待合室に妻の嗚咽だけが響く。

その時、妻の隣に4~5才くらいの男の子が座った。

「あのね、これあげるから、もう泣かないで」

その子が差し出した手に上には二つの指輪。

おそらくお菓子のおまけだと思う。

男の子「水色のは泣かないお守り。こっちの赤いのはお願いできるお守り」

私「いいの? だってこれ、ボクのお守りなんでしょ?」

男の子「いいよ、あげるよ。ボクね、これ使ったら泣かなくなったよ。

     もう強い子だからいらないの」

私「赤い指輪は? お願いが叶うお守りなんでしょ? これはいいよ」

男の子「これね。二つないとパワーが出ないんだって。お父さんが言ってた」

そういうと男の子は「だから泣かないで」といいながら妻の頭を撫でた。

すこし離れたところから「ゆうき~、帰るよ~」という彼のお父さんらしき人が

彼を呼ぶと男の子は妻のひざに2つの指輪を置いて

「じゃあね、バイバ~イ」と言って、去っていった。

いまどき珍しい、五分刈頭で、目がくりっとしたかわいい男の子だった。

私はその子の後姿をずっと目で追っていたが、

ふと隣を見ると妻は二つの指輪をしっかりと握り締めていた。

迷信とか宗教とかおまじないとか、そういったものは全く信じない二人だけど

この指輪だけは、私たちの夢を叶えてくれる宝物に見えた。

その日から妻は、さすがに子供用の指輪なのでサイズが合わないため

紐をつけてキーホルダーにしていた。

それから2年半後、我が家に待望の赤ちゃんが誕生した。

名前はあの子にあやかって「有紀(ゆうき)」にした。

生まれる前から、男の子でも女の子でも「ゆうき」にしようと決めていた。

ゆうきくん、あの時は本当にありがとう。

あの時、君に会えていなかったら、君に慰めてもらえなかったら、

今、この幸せを感じることはできなかったと思う。

私たち家族は、君に助けてもらいました。

君からもらった二つの指輪は、娘のへその緒と一緒に、

大事に保管してあります。

我が家の宝物です。

うちの娘も、君のように人に幸せを分けてあげられるような子に育って欲しい。

本当に、本当にありがとう。

子供は天使の心をそのまま持っていると私は信じています・・・。

■一緒に泣いてくれた人

私が京都で一人旅をしていたときでした。

離婚という大仕事を終え、自分自身の気持ちもやっと落ち着いた頃でした。

バイトでためたお金を握り締めて、大原へ行ったんです。

最初はバスに乗っていたんだけど、バスの中でどうしても涙を我慢できなくなりそうになって、

途中でバスを降りました。

大原は別れた主人と一緒に行きたいね、っていってた所だったんです。

主人とは、一度も大原を訪れることはありませんでしたが、

一緒に行きたかった、一緒にこの景色を見たかった、未練ばかりで恥ずかしいくらいですが、

そんなことを思って、観光客が降りるはずもないようなバス停で降りてしまったんです。

しばらく泣きながら歩いていました。

その時、横を通り過ぎたバイクのお兄さん3人が、一度通り過ぎたんですが、

また戻ってきました。

泣いている私を見たんでしょう。

一瞬、女一人でこんなところに降りてしまったことを後悔しました。

絡まれたらいやだなって。もし何かあっても助けなんか呼べないかなって。

でも、そのお兄さんたちは、「どうしたの? 道に迷ったの?」と

心配してくれました。

私が、大丈夫です、といって先に行こうとしましたが、泣きながら歩くのは危ないよ、と。

泣いているのが恥ずかしかったのと、知らない人だということで、

私も先を急ごうとしました。

その時、一人のお兄さんがいいました。

「君がどんなことがあって泣いているのか分からないけど、

泣くのが悪いことや恥ずかしいことだと思うなら、オレもここで泣くよ」と。

お兄さんは、とても真剣な目で言っていました。

たとえば、冗談やうそだったりしたら、どこかしらそんな雰囲気がするものではないでしょうか。

でも、その人は真剣に、私が唖然としていたら、泣き始めてしまったのです。

見ず知らずの女一人の観光者に対して、この人はなにを熱くなっているのだろう?

って、冷静なときなら思ったかもしれません。でも、そのときは感動すら覚えました。

ボロボロと泣き始める私を、彼らはずっとだまって見ていてくれました。

そして、何で泣いているのかも聞かず、どこから来ただとか、そんなことも聞かず、

一緒についてきてくれました。

ひとしきり泣いて、スッキリした私が顔をあげると、

お兄さんたちは、「もう大丈夫だね?」 といってバイクにのってまた山道を登っていきました。

降りた次のバス停まで、私を見送ってくれました。

紳士だなぁと思いました。

一緒に泣いてくれたお兄さんは、何があったのでしょう。

今は、いい思い出の中で、それが気がかりなことです。

あの時のお兄さんたち、私は元気になりました。

泣いてもいいって言ってくれてありがとう。

私はあの時泣けたから、今元気で笑うことができるような気がします。

今度は私の番です。

旅に出たら、きっといろんな思い出を捨てにきている人もいるでしょう。

そして、泣きたい気持ちを抱えている人も。

そんなとき、私はバイクを降りて、一緒に泣いてあげられるような人間になりたいと思います。

ありがとうございました。いつまでも忘れません。

■高校の制服を着られなかった妹へ

妹が死んだ。15歳だった。

昔から病弱な子で、季節の変わり目にはすぐ風邪を引くような子だった。

いつも私の後ろをついてきて、私の真似ばっかりするような子だった。

そんな妹が選んだ高校は、私の通っている高校だった。

これで、お姉ちゃんと一緒に学校に行けるね、ずっとお姉ちゃんと一緒にいられるね、

と言った妹の顔が忘れられない。

だけど、妹はその制服を着ることはなかった。

お姉ちゃんと一緒の制服を着られるといて喜んでいたのに。

入学する前に、妹は倒れた。

医者に、年は越せないでしょうと言われた時には何にも考えられなくなった。

病室に行くたびに妹はすごく喜んでくれた。

夜も遅いから、もう帰るね、というとすぐ泣きそうになる。

そんな妹がたまらなくいとおしかった。

でもある日、そんな妹に耐えられなくなった。

病室に行くたびに、痩せていくのがたまらなく辛くて、見ていられなかった。

すぐ良くなって一緒にこの制服を着て学校に行くんだ、と話しかけてくる妹。

もう2度と着ることができないのに。

そのことがわかったとたん、妹に顔を合わせられなくなった。

その日から病院にいくのをやめた。

妹のことを考えるのがたまらなく辛かったから。

親から、容態が悪くなったときいても見舞いにも行かなかった。

医者のいうとおり、妹は年を越せなかった。

細くなった体で無理に笑う妹をもう見なくてすむ、と思う自分がたまらなく嫌で、

どうしようもなく情けなくなった。

葬式にて、棺に入る妹の死に装束は高校の制服だった。

なんでも遺言らしい。

一度でいいからみんなに制服姿を見てもらいたい、お姉ちゃんにも見てもらいたい、

と言っていたらしい。

これを聞いて、初めて泣いた。

葬式の時も泣けなかったのに。

馬鹿な姉だった。

結局、自分が辛くなるのか嫌で妹から逃げていただけだった。

最後に妹に謝りたかった。

でも、もう妹はいない・・・・・。

「お姉ちゃんは私の誇りだよ」

私が聞いた、妹の最後の言葉だった。

妹のことを思い出すと、この言葉と笑い顔、

そして、ヒグラシの鳴き声を思い出す。

あの日まで会っていたはずなのに、思い出すのは決まってこの情景だ。

そしてふと思う。妹は最後まで私のことを誇りにおもっていたのだろうかと。

葬式が終わり、遺品整理をしていたとき、妹の日記を見つけた。

入院してから、妹が毎日書いていたものだ。

妹がどんな事を思っていたのか気になり、読んでみることにした。

日記にかかれていた事は、すべて私の事だった。

持って言った本について、交わした感想について。

私が話した学校の話。友達の話。ドラマの話。

日が過ぎるごとに、見ているほうが苦しくなるほど体調が悪くなっていたのに、

恨み言、愚痴がいっさい書かれていなかった。

私が見舞いに行かなくなってから、日記の内容は私への手紙になっていた。

いずれ私が読むとわかっているような書き方だった。

今までの思い出。どんなに私に感謝しているのかなど。

見舞いに行かなくなった事を非難するような文章は一行すらもなかった。

妹は自分がいずれ死ぬということをわかっていたのだろうか?

知った上で、恨み言も言わずに私に接していたのだろうか?

今まで姉ぶっていた私が受け入れられなかった死を、

泣き虫だった妹は受け入れていたのだろうか?

日記の最後のページにはこう書かれていた。

「今までありがとう。お姉ちゃんの妹で本当によかった」と。

■おにいちゃんありがとう

妹が亡くなって2年の歳月が流れました。

妹からの最後のメールを見て、命の尊さ、

いなくなって残された者の悲しみがどれほど苦痛か・・・・。

白血病に侵され、親、兄弟でも骨髄移植は不適合でドナーも見つからず、

12年苦しむだけで短い生涯を終えた・・・・・14歳でした。

妹が2歳半の時、微熱が続き、病院にいったときには白血病と診断・・・。

その日から母は毎日病院と家を往復する日々が続き、

大型連休で家族そろってレジャーに行く日なんてありません。

妹の面会が我が家の大型連休の消化日課でした・・・・。

「妹がいなければ遊びにいけたのに・・・・」

当時は妹に憎しみさえ抱いたほどです。

でも、両親が妹ばかり世話し、愛情いっぱい上げてる姿に嫉妬したんでしょうね・・・・。。

その妹が亡くなって2年。両親は抜け殻がとれたような静けさです・・・・私もですが・・・。

99年12月中旬、突然妹が「携帯電話がほしい」と、言い出しました。

私がメールばかりしていたので欲しくなったんでしょうね・・・。

もちろん大急ぎで買いに行きました。

そしてイブの夜に携帯電話を渡し、一緒にメールの送信方法も教えてやりました。

そして、私が家に帰る頃には12時を過ぎてクリスマスを迎えた寒い夜になっていました。

寝ようと思ったら妹からのメールです。

「さっきはイブだったけど、今日はクリスマスだよ。迷惑ばかりかけてごめんね。

お兄ちゃん。ありがとう」・・・・・

これを見たとたん、母が息を切らして階段を上がり「病院に行くから支度をしなさい」・・・。

さっき別れたばかりなのに、また行くの? なんで? と思いました。

病院にいくと、さっきまで元気だった妹に白いクロスがかけられて亡くなっていました。

あとで看護婦さんに聞いて分かったことなんですが、

携帯電話を強く握り締めて離すのに大変だったと・・・・。

それを聞いて、涙がいっぱいあふれました・・・。

妹の携帯電話は解約しましたが、2年経った今でも遺影の横にそっと置いてあります。

妹は、私にだけはきちんとお別れして逝きました。

■働く母の思い

むすめ1さいはん、ほいくえんにまいにちかよう

ははしごと、きょうもおむかえおそくなった

いそいでかえろう さあいえについた

ごはんはやくたべなきゃ むすめせかす

むすめひとりでいすにすわり

すぷーんでもくもくとしょくじをくちにはこぶ

おわったおさらをさげて ふきんでつくえをふくむすめ

よごれたへやいそいでそうじきかける

つぎはおふろ はやくはやく はいってあらってさあでるわよ

むすめはもっとあそびたそうなかお でももう21じ

はやくはやくねなさい ねるのよ

ごういんにへやをくらくする

むすめねる ははさらあらい せんたく

あわただしくあしたのほいくえんのじゅんび

ふう きがつけばきょうもあまり、むすめとかいわしなかった

むすめのかばんをあける

かみでできたちいさなひなにんぎょうがはいってた

くちのまがったおだいりさまと めのはなれたおひなさま

すぐにわかった これ むすめのてづくりだ

ごめんねきょうひなまつりだったね

なんでもっとはやくきがつかなかったんだろう

じょうずにつくれたね

かわいいおひなさまだねっていってあげればよかった

あたまをなでてだきしめてあげればよかった

まだ1さいなのに まだあかちゃんなのに

ごめんねごめんね

むすめのねがおになみだがこぼれてとまらない

しごとにふっきしてはんとしのはは

なんでもひとりでできるむすめにあまえてきた

そっとむすめのほおをなでる おかあさんわるかった

ごめんね

あした ふたりでひなまつりしよう

いっぱいだっこしていっぱいいっぱい

おうたうたおう はんせいしてきょういちにちがおわる

■ありがとう

2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。

その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」

団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」

少女「で、何しにきたんや?」

団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」

少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」

団体「・・・・?」

少女

「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。

寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて

夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。

私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。

あんたらにわかるか?

消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。

でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。

あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。

団体は撤退。

彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。

                           (出典:なける二チャンネル こあマガジン)

2005.5


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心の窓 43.事実は小説よりも・・・

事実は小説よりも・・・

インターネット上には、様々な“事実” が掲示板などに書かれています。

それらを読むにつれ、人それぞれ、人の数だけ人生があるんだと気づかされます。

ここでは私が感銘を受けたもの、考えさせられた出来事などを、

本から抜粋したものなどを含め転載させていただきたいと思います。

■祖母の置き手紙

彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。

彼は昔、両親を亡くして、祖父母に育てられていました。

そして、4年前祖父が亡くなり、彼は32歳になる今まで、

84歳の祖母と二人暮しでした。

それが反対の理由でした。

「何も結婚してすぐに介護が目の前にあるような結婚をする事はない」と。

結婚を申し込みに来た彼と彼の祖母にも、そう言い放ったんです。

その2日後でした。

彼の祖母が置き手紙を残していなくなりました。

仕事から戻った彼からの電話で、私たちは必死に探しました。

探して探して探して空が明るくなりかけた頃、

彼の祖父の眠るお墓の前に座り込んでいる祖母を見つけました。

年も年だったので衰弱し、即入院になりました。

そのことがきっかけで、私の両親も私たちの結婚を許してくれ、

結婚式はせず、すぐに籍だけを入れました。

もう10年近く前の話です。

祖母は、入院後1ヶ月ほどで亡くなりました。

そのときの手紙です。

★★へ(彼の名前)

ばあちゃんは本当に貴方がかわいかった。

貴方のお父さんとお母さんが死んだ時、

私はこの先の人生は貴方のために使っていこうと心に誓いました。。

ばあちゃんは年であるし、お金もない何も何も持っていません。

貴方への愛情だけです。

そして、貴方はばあちゃんの事を、とてもとても大切にしてくれた。

とてもとてもよい子に育ってくれました。

そして、人生の伴侶となるべき相手を見付けました。

でもばあちゃんがそれをじゃましているんだね。

幸せになってください。

ばあちゃんは貴方を育てることができた事がとてもうれしいです。

とてもとても幸せでした。

●●子ちゃんと、どうかどうか幸せになってください。。。

■字を覚えたのは何のため

4歳になる娘が、字を教えて欲しいといってきたので、

どうせすぐに飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。

ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。

「○○ちゃんから、神様に手紙を届けて欲しいって言われたんです」

こっそりと中を読んでみたら、

「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」

と書いてあったそうだ。

旦那は昨年、交通事故で他界した。

字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・。

受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。

「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ~」

最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。

娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。。。

■ママのママになってあげる!

私の母は小学校4年の時に亡くなったの。

その話を娘にしてたのよ。

ママのママは死んじゃっていないんだよーって。

そしたら、娘が「じゃあ、○○がママのママになってあげる!」

だって。

意味分かってないんだろうけど、嬉しかったよ。。。

■お母さんと分けっこしたい

4歳の息子。

お手伝い1回5円でためたおこずかいでお菓子を買った。

私的にはお菓子は食費から買うのでミニカーとか買えばいいのにと思って、

「はぁ? そんなもん買ったの?」と言った。

そしたら涙ぐんで

「この前かあさんと分けっこしておいしいねって笑ったでしょ?」って・・・。

ごめん息子よ・・・・こんなバカな母でも優しい子に育ってくれたんだね・・・・。

ぎゅっと抱きしめて泣いてしまいました。

■娘のはってくれた絆創膏

先日、ダンナとささいな事でケンカになってしまいました。

お互いにかなりヒートアップしてしまい、すごい勢いでののしり

子供の前で大泣きしてしまいました。

私がタオルで泣き顔を見られないようにしていると、

娘「ママどうしたの?(困った顔で)」

私「ママねーちょっとお目目が痛いの・・・」

娘「じゃあ、ばんそうこう買ってくるね。待ってて」

私「?」

救急箱から、娘が一番大事にしている

キティーちゃんの絆創膏を持ってきてくれました。

慣れない手つきで絆創膏の紙をはがし、

「ママの涙止まるかな~。止まって欲しいな~」といいながら

私の目の下に貼ってくれた娘。

私の心にも絆創膏をはってくれた娘。ありがとう。

子供の前でケンカはやめなきゃな・・・・。

■生まれてきてくれてありがとう

大学を卒業して、大手企業に就職したばかりの4月、妊娠が発覚した。

えっ? 何で? これが私の正直な気持ちだった。

苦労して入った大学、、氷河期に死ぬ気でとった内定、

やりたいこと、やるべきことがまだ山のようにあった。

自身の未来を考えて、即座に堕胎を決意した。

隣町の産婦人科に行き「おろしますか?」と聞かれたとき、

なぜか、「はい」と答えられなかった。

それから会社を辞め、主人と話し合い入籍。

結婚式や新婚旅行どころか、指輪さえもらえなかった。

胎児は順調に育ち無事出産。

しかしここからが本当の戦いだった。

育児は思ったいた以上に苦しく、毎日子供に怒鳴り散らす生活。

「お前なんか生まれてこなければ良かった!」

「お前がいなければ、私は東京でやりたい仕事をしてた」

「お前のせいで、結婚式もできなかった」

毎日毎日、子供を責め旦那を責め、自身を責めノイローゼになった。

本気で死んでくれないかと思ったことすらあった。

子供が1歳になったある日、体調不良で病院にいくことになった。

結果、かなり進行した子宮ガンだった。

私は23歳で子宮を全摘出した。

息子は2歳になろうとしている。

朝起きると自分がご飯を食べる前に、バナナを口に入れてくれる。

私が朝弱いことを知って上での行動だ。

あのとき堕胎しなくてよかった。

子宮摘出手術が終わったその日、私はベッドの上で思いっきり泣いた。

悲しかったわけではない。

嬉しくて、嬉しくて涙が止まらなかったのだ。

「息子は神様がくれた最初で最後のプレゼントだったのね」

そう思うと、息子と主人に感謝の気持ちでいっぱいになった。

○○くん本当にありがとう。

生まれてきてくれて、本当にありがとう。

こんなにくだらない私をママにしてくれて、ありがとう。

そしてこの世に出るためにママを選んでくれてありがとう。。。

■私を育ててくれた兄へ

私よりも10歳年上の兄は、私が10歳の時に両親を事故で失って以来、

ずっと私を育ててくれた。

兄は私を育てるために大学をやめ、働きながら私を育ててくれた。

口癖は「お前は俺の半分しか父さんや母さんとの思い出がないんだから」だった。

授業参観にも学校祭にも体育祭にも三者面談にも、いつも兄が来てくれた。

周囲のおばさま方の中で、明らかに兄は浮いていたが、

それでも兄は会社で休みをとってもらった学校に来てくれた。

初めて作った料理ともいえないようなものを、おいしいといって食べてくれた。

仕事で疲れているだろうに、家に帰ってきてから私の学校での話しを聞いてくれたり

宿題を見てくれたり、学校への連絡ノートも毎日欠かさず書いてくれた。

土日も私と遊んでくれて、いろいろなところに連れて行ってくれた。

そんな兄には自分の時間なんてなかったように思う。

友達のを見て、お団子ヘアにして欲しい、友達のお母さんならやってくれた、

とわがままを言ったとき、慣れない手つきで一生懸命作ってくれたのに、

こんなんじゃない、お母さんに会いたいよと兄をなじってしまった。

兄はそれを聞いてごめんと泣きだしてしまった。

あの姿を思い出すたびに、兄も両親を事故で失った子供だったんだと、

今でも泣きそうになる。

その兄が、1年前両親と同じように事故で突然この世を去った。

兄が死んだ時、私は兄が両親を失ったときよりも1歳年上だった。

兄はこの状態でまだ小学生の私を育ててくれたのかと思うと、

それがどれだけ大変だったかと思って涙が出る。

兄は私がいたせいで友達と遊びにも行けなかった。

恋人も、出逢う暇さえ私が奪ってしまったんだ。

たくさんだくさんごめんなさいとありがとうもいえないままだった。

「ちゃんと幸せになれ」っていつも言ってくれたけど、

兄の幸せはどこにあったのだろう、今でも考えている。

もう兄に何も返すこともできないけど、兄のおかげでここまでこれた人生、

恥ずかしくないように生きられるように頑張ろうと思う。

お兄ちゃん、天国で見ててね。。。

■母はいつでもあなたを待っている

結婚まで約束した人をとられた。とられた相手は私の妹。

悲しくてつらくて妹やあの人を呪ったり「殺してやりたい」と思ったり

ぐちゃぐちゃになって一時はめちゃくちゃな生活を送っていたが、

周りの人たちの叱咤や励ましでどうにか立ち直り、彼と妹の結婚式にも出席できた。

(それでもつらかったけど)私は家を出ることにした。

家を出て行く日の朝、車があるガレージまで母が見送りに来てくれた。

「・・・・・・じゃ行くから」

そう声をかけて車に乗り込もうとすると、後ろからいきなり母に抱きしめられた。

「あんたは私の娘。30年前必死になってお腹を痛めて生んだ私のかわいい子供なの。

だから母さんはいつでもどんな時にでも、あんたが幸せになってくれる事だけを願ってる。

つらかったりなにか困ったことがあったらいつでも帰っておいで。

ここはあんたが育った家。母さんはいつだってあんたが来るのをここで待ってるから」

私はその時、母と一緒に大声で泣きました。

私はこの母の子供でよかった。頑張って幸せになるよ。

そしてこの先どんな事があっても母を見捨てたりしない。

お母さんと私、そしてみんなで幸せになろうね。

■「お母さん」がくれた命

私がまだ小学2年生の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。

特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、なんだか馴染めなくて、

いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。

そんなぎくしゃくした関係だったけど、継母が私のために一生懸命だったことは

よく分かっていた。

小学4年生になった夏休み、私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。

あんまり気がすすまなかったけど、断る理由もなく言われるままにしぶしぶついて行った。

現地に着くやいなや、私は継母のことをほったらかしで川に浸かって遊んだ。

しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息ができなくなった。

すごく苦しかった。

でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなてきて、意識が飛んだ。

気がつくと私は病院ベッドで寝ていた。

一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言った。

ベッドの傍に、継母はいなかった。

私は父に「あの人は?」と訊いた。

父は一呼吸おいてゆっくりとした口調で教えてくれた。

私が溺れたときに継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、

そのまま力尽きて下流まで流された。

その後、救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。

私は次の日に継母のいる病室に行った。

継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。

彼女は、そのまま我が家に戻ってくることもなく・・・・。

葬儀が終わって母の遺品を整理していたら、鍵のついた日記が出てきた。

私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。

そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いたあった。

ずっと読みすすめていくと、最後のほうの日記に

「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。

あの子なら命がけで守れる自身がある。

○○ちゃんを私に託してくれた☆☆(実母の名)さん、本当にありがとうございます。」

継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。

いつだってとても優しい目で私を見ていてくれていた。

いつも私の目線と同じ高さになるように、中腰になって話しかけてくれた。

そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに、私はあの人に何一つしなかった。

愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。

私は愛情どころか、あの人の命まで奪ってしまった。

日記を読んで初めて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら錯乱状態になり、

声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、といって泣いた。

ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。

年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。

■母からのビデオメッセージ

俺も小さい頃に母親を亡くしてるんだ。

それで、中学校の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。

親父の留守中、家に金がないかタンスの中を探していると、

ビデオテープがあったんだ。

病室のベッドの上にお母さんが写ってた。

「○○ちゃん20歳の誕生日おめでと。なにも買ってあげられなくてゴメンネ。

お母さんがいなくても、○○ちゃんは強い子になっているでしょうね。

今頃、大学生になっているのかな?

もしかしたら結婚してたりしてね・・・。」

10分くらいのビデオテープだった。

俺、泣いた。本気で泣いた。

次の瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマを全部剃った。

みんなにバカにされるくらい勉強した。

俺が一浪だけど合格したとき、親父、、まるで俺が東大にでも受かったかのように

泣きながら親戚に電話してた。

そんで、20歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。

また、よく見てみたら。

ビデオに撮ってる親父の鳴き声が聞こえてた。

お母さんは、笑いながら「情けないわねぇ」なんて言ってるんだ。

俺、また泣いちゃったよ。

親父も辛かったんだろうな。親父にそのこと言ったら、しれねーよなんて

言ってたけど、就職決まったとき、親父が「これでお母さんに怒られなくて済むよ」

なんていってた。

俺、このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

お父さん、お母さん、ありがとうございます。

■息子の好きなポケモンジュース

息子が4歳の時、インフルエンザに感染し40度以上の高熱と出して、

深夜に痙攣を起こした。

意識はなく、搬入先の病院から、翌朝、緊急病院に転送された。

集中治療室のベッドに寝かされ、胸や鼻にチューブやらコードやら取り付けられた。

医師からは、「インフルエンザ脳症です」と告げられ、

壊死性脳症というタイプの病状であり、今のところ小脳が壊死している旨、

また、症例もあまりなく、治療法が確立されていないこと、

過去の症例など説明があった。

その説明を聞いて、「息子はもう死んでしまうのだな」と感じた。

医療処置があるのでとのことで、いったん待合所に出、椅子に座りながら、

別の病院に入院中の妻にどのように説明しようかと悩んでいた時、

ふと目の前の資料飲料の自動販売機に気がついた。

その中に息子がよく飲んでいたポケモンのオレンジジュースがあることを

発見したのだ。

缶のふたのところに5百円玉くらいの大きさのポケモンのコインが入っていて、

息子がコイン目当てに買っていたものだった。

その瞬間、これまでの出来事があまりに突然なため、

「息子の死」というものについて、実感をもって理解できなかったのだが、

急に涙が溢れてきて、いつまでも止まらなかった。

昨日まで本当に元気にしていた。

覚えたばかりのふざけたテレビ漫画の歌を大声で歌うものだから、

「うるせえ!」と怒鳴りつけたのも昨日のことだ。

そんなことが次々と走馬灯のように頭の中を回り、

今、病院にいることが夢なのかどうかさえも分からなくなり、

ひとりで泣き続けた。

それから集中治療室での入院が続いた。

約1週間、依然として胸のチューブ等はついたままで、

意識はあるのかどうか分からず、

普段の3分の1しか開かない眼はうつろだった。

もちろん、手や足はほとんど動かなかった。

話しかけても、返事もなく、時折眼球が私の方を追うように

ゆっくりと動くが、見えているのかどうかも分からなかった。

看護婦さんがテレビを運んできてくれた。

「外からの刺激も大事ですから」とNHK教育テレビをつけて去っていった。

それから2、3日。いつもと同じように息子が見えるように教育テレビを付け、

私は脇に付き添っていた。

すると突然、かすれるような小さい声で「だ・・・ん・・・ご」。

びっくりして息子の方を向くと、テレビの方をみながら

息子の口元がかすかに笑っている。

しゃべったのだ。

思わずテレビの音量を上げた。

テレビはだんご三兄弟」ほ歌を放送していたのが。

やっぱり息子の好きな歌だった。

テレビは見えていたし、歌も覚えていたのだ。

よかった。嬉しかった。

歌が終わると、息子は眠り始めた。

私は自動販売機にポケモンのジュースを買いに行った。。。

                         (出典:なける二チャンネル こあマガジン)

これは朝日新聞の読者の相談室コーナーにあった記事です。回答が見事ですね。

■相談室「いつも死ぬんだ」怖くて不安

質問:(北海道 中学3年生女子15歳)

中二の夏ごろから、自分はいつか死んで、

この世から消えてしまうんだということを意識するようになりました。

それからは、どんなに面白いことや嬉しいことがあっても、

その考えが頭の片隅で邪魔をします。

そんなことを悩んでもしょうがない、

今生きているんだから今を精一杯楽しめばいいんだと

何度も自分に言い聞かせるのですが、

どうしても心からそう思うことができず、怖くて不安な気持ちから抜け出せません。

人が年をとって死ぬことは避けられないのだから、

恐れるのではなく受け入れるようになりたいのいですが、それは難しいことでしょうか?

回答:(回答者Tesuyaさん-創作家)

死生観というのは人生の数と同じだけありますから、

こういうふうに思いなさいと、あなたに強制することはできません。

ただ、ボクの場合を語ることはできます。

ボクもいつかは死んでしまうので、出し惜しみはしないことにしているのです。

ボクはいつか死んでしまうので、使いきれないお金を稼ぐために

頑張ろうとは思いません。

ましてやお金のために人を悲しませようとは思いません。

ボクはいつか死んでしまうので、土地を巡って誰かと争おうとは思いません。

あの世に持っていけるもいけものなど一つもないのですから、

争うぐらいなら笑っていようと思います。

ボクはいつか死んでしまうので、嫉妬やらいらいらはやめました。

その分、空の色や鳥の声をしっかりと受け止めようと思います。

ボクはいつか死んでしまうので、女の人とお酒が好きであることを生きている今、

宣言いたします。

ボクはいつか死んでしまうので、生きることを意味をいつも考えていたいと思います。

鮮やかな一瞬に恋しています。

ボクはいつか死んでしまうので、わずかな才覚でも有効に使いたいです。

それで誰かに喜んでもらえたら、死ぬ時はきっと微笑んでいるでしょう。

父さん母さん、産んでくれてありがとう。

生きるって、途方もないプレゼントだったんだね・・・。

(朝日新聞2005年3月26日朝刊18面 生活「読者と」 相談室)

ちょうどこの文章を打ち込んでいるときに、

となりの部屋から4歳の長女の声が聞こえてきました。

「お母さぁん、○○ちゃん(自分のこと)が生まれてきてうれしい?

○○ちゃんなぁ、お父さんがお仕事に行っている時、

お母さんが一人ぼっちで悲しい、って泣かないように生まれてきてん。

○○ちゃんのこと、好き?」

2005.2


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心の窓 42.忠臣蔵って?

忠臣蔵って?

私がいつも思っていることがあります。

日本人って「忠臣蔵」が好きな人けっこう多いですよね。

たぶん、こんなこと書いたら、反発する方も多いかもしれませんが、

やっぱりあれは“恨み”であり、“仕返し”であり、

忠義とはいえ“人殺し”じゃないかな、と思うわけです。

どんなに悪口、嫌がらせを言われようと、

カッとなって刃傷沙汰にして先に手を出したのは赤穂の殿様ですし、

その結果として裁きがあり、そのお上の裁きが不当だったにしても、

今で言う失業状態になったという個人的な“恨み”と周りのあおりもあって、

あんなことになってしまったのだと思います。

そして、さらにその結果として屋敷を襲撃し、

吉良の家来は当然“侵入者”に対して防衛をします。

彼らはそれが仕事ですから。

そして、浪士はたくさんの家来をも殺してしまいました。

その殺された家来たちも家庭を持ち、かわいい奥さんがいる良き夫であり、

子供の良きお父さんだったはずです。

夫を殺された妻、父を殺された子供。

そこに焦点をあててみると、なんともむなしい思いがしてなりません。

小さな子供は、テレビの戦いのシーンや残酷な場面が出てくると

泣く子が多いそうです。

うちの4歳の子も、いつもテレビでそんなシーンに出くわすと

すぐに泣き叫んで、テレビ消して! ほかに変えて! といいます。

しかし、そのままにしておいたり、テレビゲームの戦いや殺人のゲームを続けていると、

それが当たり前になり、なんにも感じなくなってくるそうです。

小さな子供の魂って、ついこの間まで、天国にいた魂だと私は信じていますので、

とってもピュアな心をもった子供の魂から見ると、

大人が平気でそんな残酷な場面を見ていることが不思議でならないのでしょうね。

生まれてすぐの赤ちゃんの魂は、フワフワ浮かぶ

まんまるの風船のようなものです。

長く肉体をもって過ごしてきた大人の魂は、

本来、丸く豊かな魂である軽い風船に、

不平、不満、愚痴、文句、恨み、ねたみ、悪口などの砂つぶがどんどんと投げ込まれ、

次第に重くなっていき、どんよりした暗い世界に下りていくようなものだと思います。

だったら、生きている間にいかにその砂つぶを取り去り、

風船を赤ちゃんの魂のように、軽くしていくかが人生の課題のような気がしてなりません。

どんな理由があろうとも、他人が相手の命を絶ってはいけません・・・。

(2004.12)


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