心の窓」カテゴリーアーカイブ

心の窓 41.あしたまた来てね

あしたまた来てね

アフリカでは、飢餓に苦しんでいる国がたくさんあります。

日本からも、たくさんの若者がボランティアでアフリカに援助にいっています。

ある日本人のボランティア団体で、食糧の供給をやっていました。

その日の食料であるとうもろこしのスープをもらうために、

ずいぶん遠くからも子供たちが歩いて集まり、行列が出来ています。

ある日、子どもが遠くからやってきたのですが、遅れてきたらしく泣いています。

「ぼくのスープはもうないの?」

ボランティアの人たちも、

「ごめんね、もう空っぽなの・・・・。あしたまた来てね」

といって、泣いて答えます。

ボランティアの人たちまでも、なぜ泣いているのか分かりますか?

そうなんです。

その子供に、もう明日がないのを知っているからです。

帰り道、家まで帰りつけずに、餓死してしまうことが分かっているからです。

分かっていても、何もできないつらさに泣いているのです。

この写真をご覧下さい。

手前で子供がうずくまっています。

女の子だそうです。

そして、その後ろでその子が餓死するのを、ハゲタカが待っているのです。

万物の霊長である人間が、なぜハゲタカに食べられないといけないんですか!?

私はこの写真を見て、涙が止まりませんでした。

もし、この子が自分の子だったらどうでしょう。

こんなつらいことはありません。

自分の子でなくても、何とかしたいと思いませんか?

この写真は、ピューリッツァー賞を受賞しました。

しかし、このカメラマンは自殺をしてしまったそうです。

この写真は、世界中の人たちに、アフリカの現状を知らせ、

ボランティア活動の意識を芽生えさせた、とても大きな功績があったと思います。

しかしまた、「なぜこの子を助けなかったのか」、とカメラマンは非難を浴びたのです。

非難する人は、その現場を知らない人たちです。

カメラマンは、ここではこんな子供がたくさんいて、助け切れないということを

分かっていたと思います。でも、その非難の声に負けてしまった・・・。

自分では何もせず、非難だけは立派にする。

そんなことよりも、まず”実践”をする人たちがいかに素晴らしいことか。

このお話は、ある方の講演ビデオで知りました。

日本人は世界一食料を輸入し、そして世界一食料を棄てている国だそうです。

なんと、30%の食料は廃棄されているのです。

なんと贅沢な国なんでしょう。

一人一人が小さなことからでも、

まず自分には何ができるのか、ということから始めていかなければ、

今のままでは、大変なことになるような気がします。

人に何かを強要するのではなく、

まず、自分が出来ることを考えて行きたいと思います。

参考資料(ケビン・カーターの作品):http://homepage.tinet.ie/~manics/MSPedia/Carter.htm

「心の窓、読ませて頂きました。もう涙が止まらなくて
自分の無力さを身に知る思いで一杯です。
私たちに出来ることはどんなことだろうと考えてしまいます。
今、私は、冷蔵庫で物を腐らせないことと、贅沢をしないこと、
作った料理は、捨てないで翌日も食べる事を心がけています。

餓死する人が、一人でも助かる世の中になるように、
自分に何が出来るのかを考えていきたいと思います。
まーちゃんと出会い、心の窓を読むことが出来たことを
本当に感謝しています。
心の窓を、一人でも多くの方が読んで、立ち止まって
考えてくれると良いなぁと思います。
ありがとうございました。(愛知 Nさんより)」

 私が北海道で講演したときに、このハゲタカの話をしました。
 そして、そこに参加された方がこのようなメールを参加した仲間にメールを送られました。それを転載しますね。

 「昨日は、石山さんのお話、素晴らしかったですね、参加された皆様は、されなかった方にもに感動の話をお伝えしょう。

 石山さんが最後に見せて下さった衝撃的な写真、アフリカの子供たちが、飢えで亡くなっていくことを伝えた1枚の写真です。

 隣でハゲタカが少女が死ぬのを待っていましたね。

 あの写真を撮ったケビン・カーター氏はピューリッツアー賞を受けたのですが、

 写真を撮る前に少女をなぜ助けなかったのかという批判が噴出し、

 その後カーター氏は自殺をしたそうです。

 その葬儀の式で、日本の日暮里小学校の児童による、写真に対しての感想が弔辞として披露されたそうです。

 「悲しいこと、つらいことに遭ったとき、この写真を思い出して乗り超えようと思います」

 「ぼくはよく学校の給食を残しますが、これからは好き嫌いなく食べようと思います」

 などの感想文にまじって、一人の生徒は

 「私は自分のことしか考えない生き物でした」と書いたそうです。

  ほとんどの大人は写真そのものが訴える事実を見ることなく、その写真を撮ったカーター氏を裁きました。

 日暮里小学校の児童はこの写真から、アフリカ飢餓の現実を全身で受け止め、

 その実感から生まれた言葉が、民族を超えて葬儀に参列した人たちを感動させたのです。

 「私は自分のことしか考えない生き物でした」という一人の生徒の発言は、

 人を裁き、批判することしか知らない人間に向けての頂門の一針ではないでしょうか・・・。

 カーター氏の両親は葬儀の後、

 「あの写真の持つ意味が初めて理解できました。

 もし息子がこの子供たちの感想文を読んでいたら、自殺を思いとどまったことでしょう」と述べたそうです。

 私はこの話をある方のブログで読みました。

 おそらくカーター氏は自分ひとりでは助けられないほどの悲惨な状況を目の当たりにし、

 人間として苦慮し、逡巡したすえ、自分はカメラマンであるという原点に立ち返り、

 最大の勇気をふりしぼってシャッターを切り続けたのだと思いました。


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心の窓 40.お好み焼きの具

お好み焼きの具

ある小学校の参観日。

先生がいいました。

「今日はお好み焼きの絵を描きます。

その中で使う具にどんなものがあるか、みんなであげてみましょう。

どんなものが、お好み焼きの中にあるかな?」

みんな、「ハーイ! ハーイ!」と手を挙げて言いました。

ある子どもが、家でお好み焼きを作った時には使ったことはないけど、

あるお店に行ったら”チーズとお餅”も具にあったので、

「先生! チーズとお餅!」と言いました。

すると先生は、「うーん・・・、チーズとお餅かぁ。それは変だなぁ・・・。ほかにっ!」

と、他の子に、また手を挙げさせました。

その時、いままでハイ!ハイ!と楽しそうに手を挙げていた教室の空気が一変しました。

そして、すごく楽しそうに手を挙げていた空気から、

今度は「いかに先生に気に入られるか、というような答えになってしまいました。

そして、そのあと書いた絵が、全部同じようなものになってしまいました。

だれ一人、個性的な絵を描いた子はいませんでした。

参観が終わったあと、個人懇談会がありました。

その子どもの母親がこう先生に言いました。

「先生、実はあの時、教室の空気が変わりましたね。

そして児童はみんな、先生に気に入られる絵になってしまいましたね。

実際に手を挙げて、”チーズとお餅!”といった子は、ウソをついたのではなく、

本当にお店に行って、チーズとお餅を入れて食べたんです。

だから、手を挙げて”チーズとお餅と言いました。

それを、「それは変だなぁ・・・」といって、「他に」と言った瞬間、

もうその子は手を挙げなくなってしまいました。

先生に気に入った答えしか採用してもらえないと思ったんです。

それって、子どもの芽を摘み取っていませんか?

”そういうこともあるよね、それは面白いよね、と言って欲しかったと思いますよ。」

それを聞いた先生は、涙を流してこういいました。

「そういう教師にだけはなりたくない。

子どもの創造性や方向性を摘み取らないで、伸び伸びと子どもを育てて上げたいために、

威張っている先生ではなくて、子どもの能力を伸ばしたいという、

そういう夢と希望を持って、教師になったはずなのに、

それがいつの間にか、私の中で失われていました・・・。

今日は、このことに気付かせてくださってありがとうございました・・・。」

と深々と頭をさげられました。

この話は、私の知り合いの女性が実際に体験した実話です。

ご本人の了解をいただきましたので、ここに紹介させていただきました。

「氷が溶けたら何になる?」

「春になる」

こういう自由な発想を「それは違うなぁ」ではなく、「それは面白い!」と認めることで

子どもの能力はどんどん伸びていくのかもしれませんね。


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心の窓 39.特攻隊のピアノ

「人生の3歩」特攻隊のピアノ

掲示板の書き込みで素晴らしいお話がありました。

きっかけは、解体してしまう小学校の体育館にあった

ピアノのお話からでした。

そのまま転載いたします。

No.1471 はじめまして ヤマドルママ [2003/06/08(日)09:47:08]
ピアノで検索してたどりつきました。
実は子どもの小学校の体育館が改築になり、そのついでになんとピアノも一緒に取り壊されてしまいました。ちゃんと調律もされて、
ちゃんと弾かれていたピアノが、こんな最後だなんて…あんまりです。それでせめてそのピアノについて何かわかることがないか、調
べ始めました。
「ヤマハ NO25 65698」です。
当時を知る人がいなくて、難航しています。
この番号から何かわからないものでしょうか。
参考: http://www25.tok2.com/home/yamadoll2/school.htm

No.1473 Re: はじめまして ぴあの屋まーちゃん [2003/06/09(月)09:39:09]

ホームページの写真見ました。
広い体育館にポツリと置き去りになったグランドピアノを見て、ちょっと悲しい気分になりました。

体育館の解体と同時につぶされるのでしょう。ふつうはどこか引き取り手があれば、と思いますが、公立の学校の場合、廃棄処分が決
定した時には、それを証明するためにつぶしたところを写真撮影をして役所に出さないといけません。よく道路の工事現場で、黒板に
なにか文字を書いて写真を取ってるでしょ。ちゃんといわれたとおり工事をしましたよ、と証明するために撮影しているあれです。

ヤマハの製造番号から見ると、昭和30年ごろに製造されたピアノですね。今、昭和で言うと昭和78年ですから、約50年前のピアノとい
うことです。ヤマハグランドGシリーズが出る以前のピアノですから貴重です。
学校のピアノは相当消耗が激しいですから、このような結果になったのでしょう。

ちょっと難しい話をしますが、すべての物質やエネルギーは輪廻転生します。燃やせばCO2(二酸化炭素)になりますし、そのピアノ
を構成していた分子、原子は地球に帰って、また何かの物質に生まれ変わります。木材に含まれていたH2O(水)も水蒸気となって、
雲になって雨となり、それをまた木材が吸収して、再びピアノになるかもしれません。

また、昔、卒業式でそのピアノの音を聴いて、感動した心も、その人の心の中で、ある種のエネルギーとなって生き続けています。そ
のピアノのことを思い出すだけで、エネルギーとして復活するのです。
ですから、そのピアノはそういう結果になってしまいましたが、これは意味のあることであり、また十分役割は果たしたと思いますよ

よく人間の死も二つの死があるといいますよね。
「肉体の死」と「存在の死」。
肉体は滅びますが、その人が生きていたということを思い出す人が、この地球上に一人でもいる限り、その存在の死というのは訪れな
いということです。ですから、豊臣秀吉もまだ死んでいませんし、お釈迦さんやキリスト、弘法大師、名を残した人は
みんな心に生きつづけています。
これも”思い出す”というエネルギーが生き続けているこういうことですね。

エネルギーとは、熱、光、電気、重力、磁力などの目に見えない、でも存在するという不思議な、次元の違うものだと思いますが、
私は人間の心(魂)も、実はエネルギーの塊だと私は考えておりますので、それは船(肉体)で仕事をした船長(魂)が、
世のため人のためになるいい仕事をしたら、その船が古くなって朽ちてしまったとき(死んでしまった時)に、
しばらく陸(天国)で業務日報(前回の人生の反省)を書いてゆっくりと休んだ後、船会社(神様?)が
次にさらに立派な(修行にふさわしい)船(新しい体”受精卵”)に移って、出航(出産)後に、
また乗客(周りの人たち)に喜んでもらえるような新たな仕事をする。
これの繰り返し、つまり輪廻転生するようなイメージを持っています。

タイタニックの船長は、ちょっと長い間、業務日報を書いているかも知れません。
でも、修行をしやすいように、過去の記憶は全部忘れてしまうようですね。
そういう”仮説”を持てば、いい生き方をしたいな、って思いますよね。

ピアノの話から飛んでしまいましたが、そのピアノのことを思い出すことや、こうやってHPで写真を残すということは、とても素晴ら
しいことです。

お知らせありがとうございました。

No.1475 Re2: はじめまして ヤマドルママ [2003/06/09(月)21:01:27]

ありがとうございます。
レスを読んで、少し救われた気がしています。

ピアノのために、どうしてその小学校にもらわれることになったのか、みんなの思い出などを探しているところです。字でも残してお
きたいなあ、と思っています。
そのピアノの天板は、今このパソコンの横に立てかけてあって、いつも子どもたちや私と一緒です。
中の部品は夫(革人形作家)がピアノとその思い出に由来した作品に作りかえたいと言っています。
発想段階なので、より多くのそのピアノの資料を集めているところです。
ピアノができた頃の時代やピアノが学校にもらわれた頃の学校生活など。ただ、学校で資料を集めると痛いところをつくみたい
なので、難航しています。しかしそれもまた楽し。がんばります。
参考: http://www.f4.dion.ne.jp/~yamadoll/

No.1486 Re4: はじめまして おてもと [2003/06/15(日)04:41:24]

ヤマドルママさん、こんにちは。横から失礼致します。

私もホームページを見せていただきました。小学校と共にたくさんの想い出を作ってきたピアノが、体育館と一緒に潰されてしまった
のかと思うと寂しい気持ちになりましたが、「全ての物質は輪廻転生する」というぴあの屋さんのお返事には「その通り!」とちょっ
と感動しています。

私は天文学を趣味にしているんですが、私達人間の骨を作っているカルシウム、肉を作っている炭素、血液に含まれている鉄など、全
ての物質は夜空に輝く星々の、気の遠くなるような輪廻転生(専門用語では核融合や超新星爆発)の中で生み出されてきたものなんで
す。だから、ピアノ屋さんがおっしゃることは本当で、地球上にあるものは全て地球から生まれ、地球に戻るんですよね。

ところで、ホームページのピアノの写真を見ながら、映画『月光の夏』のことを思い出しました。太平洋戦争末期、明日出撃すること
を命じられた音楽学校出身の若き特攻隊員が、「死ぬ前に一度でいいから思い切りピアノが弾きたい」と、10キロ以上も離れた小学校
(当時は国民学校と言った)まで線路伝いに走って来て、講堂にあったピアノでベートーヴェンのピアノソナタ『月光』を弾いて帰っ
て行った、という実際にあったお話を映画にしたものです。明日死ななければならないという運命を背負ったその人にとって、ただ、
今ピアノを弾くということだけが、自分がこの世に生を受けた、何にも変えがたい証明だったのでしょう。

というわけで、もしまだご覧になっていないのであれば、ヤンドルママさんもぜひご覧下さい。原作は『月光の夏』(毛利恒之著・講
談社文庫)、映画の他にも、劇団東演によってお芝居になったり、つい最近は、橋爪功さんや日色ともゑさんの声で、ドラマCD(㈱ア
ットマーク)になって発売されたりしています。

ちなみに、その特攻隊員の人が実際に弾いて行ったそのピアノは、廃棄処分を免れて調律師さんらの手によって完全修復され、現在は
佐賀県のJR鳥栖駅前にある「サンメッセ鳥栖」という建物に保存されています。一言ことわれば誰でも弾かせてもらえるということな
ので、近くまで行かれた際には、お立ち寄りになってみてはいかがでしょうか。

沖縄戦での特攻作戦と言えば、今から58年前のちょうどこの時期です。私の大叔父がこの沖縄戦で亡くなっている事もあり(偶然です
が、今日、6月15日が命日です)、長文になってしまい失礼しました。21世紀になっても相変わらず戦火の絶えないこの地球であり、
何時の間にか「いつか来た道」を再び通ろうとしているように思えてならない私たちの国ですが、その今だからこそ、自由にピアノが
弾けるという、平和であることのありがたさをお互い噛み締めたいものだと思います。

No.1489 Re5: はじめまして やっちゃん [2003/06/16(月)00:00:56]

『輪廻転生』のお話とても感動しました。40年後50年後、私がもし死んでしまったらこのピアノはどうなってしまうんだろう?なんて
たまに考えることがあったので、ピアノも私も(笑)輪廻転生するんだーと思ったらなんだか安心しました。

No.1491 Re6: はじめまして おてもと [2003/06/16(月)01:57:12]

体育館にあったピアノ、部分的にではあれ、救い出されたようで良かったですね。「皮人形」って今まであまり知らなかったんですが
、ホームページを見せていただき、独特の雰囲気を持った、なかなか味わい深い世界なんだなぁ、と思いました。

ヤマドルママさんのご家族のように、ピアノを愛する人の手によって新しい命を吹き込んでもらえることになって、ピアノの部品も喜
んでいるのではないでしょうか。一体どのように生まれ変わるのか、私も今からとても楽しみです。作品が出来上がったら、是非ホー
ムページに掲載してください。

ところで、ヤマドルママさんは宮崎の方だったんですね。私は、今東京に住んでいる、大分県人です。機会がありましたら是非、鳥栖
のピアノもご覧になってください。ドイツの、今はもう無い「フッペル(HUPFER)」というメーカーのピアノで、このメーカーのピア
ノは日本に2台しかないとのことです。ちなみにもう1台は、偶然同じピアノを使われていた高知の声楽家の方から寄贈されたもので
、鹿児島県の知覧町にある「特攻平和会館」に展示されています。機会がありましたらこちらもどうぞ。

No.1493 Re6: はじめまして おてもと [2003/06/16(月)02:44:26]

なんと、「心の窓」に、私が書いた文章が掲載されていてビックリです。嬉しいやら気恥ずかしいやら、掲載されるとわかっていれば
もう少し文章を練ったのに、とか考えたりして(笑)。私の思いのようなものを理解していただいたピアノ屋さん、どうもありがとう
ございました。

ところで、その書き込みの中でご紹介した『月光の夏』のドラマCDについてですが、特攻隊員の方が実際に弾いていかれた、実物のピ
アノで演奏された『月光』の曲が、重松聡さんの演奏で収録されています。

とても70年以上前のピアノとは思えないような素晴らしい音色で、その演奏の素晴らしさもさることながら、調律師さんのピアノ修復
技術ってすごいんだなぁなどと、そういう意味でも感動してしまいました。

このピアノを作った「フッペル」というメーカーは、ナチスドイツによって取り壊されてしまったらしいんですね。一方、高級ピアノ
の代名詞のような「スタインウェイ」は、アメリカ資本だったことが幸いして、アメリカによるドイツ爆撃対象から外れ、工場が焼け
ずに残ったために、戦後、戦災を被ったドイツの他のピアノメーカーに先んじて、世界中の音楽ホールを一挙に制することが出来たと
いう歴史的経緯があると聞いた事があります。

『月光の夏』や最近の『戦場のピアニスト』に描かれているように、戦争とは個人の運命を翻弄するだけでなく、歴史あるピアノメー
カーさえ、その大波の中にかるがると飲み込んでしまうものなんですね。改めて、平和の尊さを噛み締めたいものだと思います。

ところで。

私も子どものころ、小学校の映画教室で『僕は五才』、観ましたよ。子ども心にすごく感動したのを覚えています。ときどき「あんな
映画も観たなぁ」なんて思い出していたんですが、まさかこちらのホームページで再び巡り会うことになろうとは。不思議なものです
ね。


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心の窓 38.ねえ ねえ ねえ

ねえ ねえ ねえ

こどもたちが

「ねぇ  ねぇ  ねぇ」 と話かけてくる

「なあに」  とこたえる。

そしたら

「なんでもない」 とこどもたちがこたえる

あ~確かめたかったんだな・・・・

自分の方を向いてくれるかを・・・・・

そんなこどもたちが

とても  とても

愛しい   愛しい

「ねぇ   ねぇ   ねぇ」

そんなふうにはなしかけてくる

子供たちの笑顔が

とてもかわいい・・・

「ねぇ  ねぇ  ねぇ」そんなひと時が

とても愛しい・・・・ 

大切な時間・・・・

いつかそんな日がなくなるかもしれない

その日が来るまで

<作:くるみ>

                   
このHPがきっかけで調律をご依頼をいただいたお客様(くるみさん)から
私の作ったホームページを見て、といわれて見たところ
自作の詩のひとつにとても感動して
そして、とてもとても大きなことに気づきました。
      それは、この「ねえ ねえ ねえ」。
                   
「ねえ ねえ ねえ おとうさぁん」は私の3歳の娘の口癖でもあります。

    いつも、ねえ ねえ ねえ と私の袖を引っ張り遊んでほしそうに言って来ます。

でも仕事が超ハードでいつもどこからか電話がかかってきている状態。
 なかなか相手をしてやれません。

でも、私は何のために仕事をやってるんだろう、
お父さんはただ仕事さえやってたらいいのかな、
こんな大切な時間、今しかないな、
                   
そう思うと、休みのほとんどない状態からなんとかしないとと、考えました。
ちょっとした雑用からなにからなにまで自分でやらないと気がすまない性格をちょっとなおして、少しぐらい人に甘える
ということも必要じゃないかと考えるようになりました。

だって人間って「人の間に生きている」って書くでしょう。

私は決断は早いです。
「よし、人を採用しよう」と思ったとき、不思議なこともあるものです。

「あの、石山ピアノさんで社員を募集してませんか?」 と、電話がかかってきました。

なんと私の理想としていた経歴の方(同じ調律学校出身)からの問い合わせの電話でした。

このホームページを見られたようで、電話の話し方から
もう面接をする前に、”直感”で採用を決めました。

今、バリバリと私の仕事を手伝って手伝ってくれています。
直感どおり、技術力、応対力、営業力申し分ない人でした。

自分でなにもかもやらないといけないという”執着”を離したとたん
こんなにすぐに話が展開するということは

やっぱり、だれかがどこかで見ていて
そんな不思議な存在に助けられて人は生きているのだと思いました。


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心の窓 37.エルトゥールル号の遭難の話

エルトゥールル号の遭難の話

『明治二十三年九月十六日の午後九時ごろ、和歌山県の南端、樫野崎灯台の沖で

台風の為トルコの大型木造軍艦が遭難した。

村人は流れついた外国人を自分の体温で我を忘れて温め看病し、自分達の食料をすべて与え、

こうしてトルコの人達は一命を取り留めた。

また、村人は遺体を引き上げて、丁重に葬った。

船に乗っていた人は六百人余り、助かったのは六十九名。

明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされ、生存者全員をトルコに送還なされた。

また、日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。

イラン・イラク戦争の最中、一九八五年三月十七日の出来事である。

イラクのサダム・フセインが、

「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落す」

と無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。

日本からは企業の人達やその家族が、イランに住んでいた。

あわててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。

世界各国は自国の救援機を出して救出していたが、

日本政府は素早い決定ができなかったため、

空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機のトルコ航空の飛行機が到着して、

日本人二百十五名全員を乗せて成田に向けて飛び立った。

タイムリミットの一時間十五分前であった。

前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、

今もトルコの人たちは忘れていません。

私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。

トルコでは、子供でさえ、エルトゥールル号のことを知っています。

今の日本人が知らないだけです。

それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

このようなすばらしい父祖をもった誇りを我々も子々孫々まで伝えなくてはいけないと思います。

                                          (出典:いい話の新聞)

■市民団体を黙らせた少女の言葉

2年前旅行先での「駐屯地祭り」で例によって、変な団体が来て私はイヤな気分。

その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」

団体「私たちは全国から集まった市民団体で・・・・・・」

少女「「で、何しにきたんや?」

団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・・・・」

少女「私は神戸の人間や。はるばる電車にのって何をしにここまで来たかわかるか?」

団体「・・・・・・・?」

少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。

   寒い中、ご飯を作ってくれて、フロも沸かしてくれて

   夜は夜で、槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。

   私はその人たちにお礼を言いにきたんや。

   あんたら分かるか?

   消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。

   でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・・」

最初、怒鳴りちらすように話始めた少女は、次第に涙声に変わっていった。

あまりにも印象的だったのではっきりと覚えている。

団体は撤退。

彼女は門をくぐったときに、守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく、

直立不動のままで敬礼していた。

                         (出典:二 チャンネル掲示板 より)

■祖父母の祈りに守られて

私が15才の1月。

受験を目の前にして、深夜から朝まで受験勉強をしていたとき、

机の上に置いてあった参考書が触ってないのに急に落ちた。

ため息をついてそれを拾いに机の下にもぐったとき、それが起こった。

1995年1月17日5時47分。

私の住んでいた地方は戦後最大の地震に襲われた。

ものすごい地響きといろんなものが壊れる音を机の下で聞いていた。

しばらくして揺れが収まり、机から這い出すと、

机の上はガラスと倒れてきた本棚でぐちゃぐちゃだった。

わたしは拾った参考書をみて驚いた。

参考書だと思っていた本は、祖父母に前日買ってもらったばかりの日記帳。

鍵付きで革張りの、ちょっと高価なものがクラスで流行っていて、

私も例に漏れず欲しくなり買ってもらったものだった。

「あれ?」と思って中を開くと、最初のページに

「生きていることをただ感謝し、毎日を大切にせよ」と

僧侶だった祖父の達筆な言葉が書かれていた。

はっと我に返った時、母が血相を変えて私の部屋に来た。

机の下で丸まっている私を見て、無事な姿に大泣きしていた。

その2時間後。祖父母が地震で亡くなったと叔父からやっと連絡があった。

ところが、亡くなったいたのは布団の上でなく、

二人とも本堂の仏さまの前だったと言う。

後から聞いた話で、祖父母は、受験前の私のために、

毎日朝5時半ごろから仏様に読経してくださっていたのだ。

あの日記帳を落としてくれたのは祖父母だったのではないか、

と思えてなりません。

そのことがあって、私は受験高校を変更。

現在は看護婦をしている。

生きていることを感謝し、毎日を大事にしたい。

日記という手紙を毎日日記帳につづり、

祖父母に手を合わせています。

今年で8冊目。

                            (出典:二 チャンネル掲示板 より)


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