こころの手足
中村久子さんの自伝小説を読んで、とても感動しました。
中村さんは、手も足も無い身体障害者です。
明治32年ころの出来事です。
満2歳と10ヶ月の時、左足の甲が紫色に変わってどうせしもやけだろうと
ほっておいたところが、だんだんひどくなり
「あんよがいたいよう」とあまりに泣くものですから、
両親が医師にみせたところ、「突発性脱疽」という病気で、
両足とも切断しないと命の保障はないといわれました。
結婚11年目にやっとできた子供ですから、両親はたいそう悩んで
切らずになんとか治してほしいと、懇願しながら決断できずにいたところ
こんどは両手にそれが転移してしまい、手の下しようがない状態になってしまいました。
両親は、神仏に頼むしかないと一心に祈るしかありませんでした。
ある日、けたたましく泣くものですから駆け寄ってみると、白いものが転げています。
左手首がぽっきりと包帯ごともげて、落ちていたのです・・・。
これをきっかけに、全部の手足を切り落とす手術が行われました。
お父さんはこの子をとにかくかわいがりました。
しかし、手足の傷跡が痛むものですか、毎日夜泣きをします。
近所に迷惑がかからないよう、毎晩おぶって夜中外を歩きつづけました。
たたみ職人であるお父さんは、このままじゃ仕事にならないだろうからと、
親戚からこういわれます
「見世物小屋なら引き取ってくれるだろう。売り渡したらどうだ。」
ある日、突然夜中にお父さんから揺り起こされ
「ひさ、父様(ととさま)が乞食になっても、死んでもけっして離さないよ」
と、語った直後、その晩お父さんは39歳の若さで亡くなってしまいました。
近所の友達からはいじめられ、外に遊びにいくことも出来ず、
もちろん学校にも通えず、いつもお人形相手に遊ぶしかありませんでした。
「あんたはお手々もあんよもあっていいね。そのお手々、私に貸して頂戴な」
無心にそのお人形に頬ずりする姿をみて、お母さんはどんな気持ちだったでしょう。
さらに、こんどは目が見えなくなってしまいました。
手足も無い、目も見えない。この先どうやって生きていけばいいのか。
ある日、お母さんはこの子を抱いて、滝に向かいました。
「ゴォー」とうなる水の流れにおびえてなく我が子をみて、母は我が家に引き返しました。
その後、目は再び見えるようになりました。
お母さんは、このままではいけないと思ったのでしょう。
毎日毎日、あらゆることが自分でできるよう、厳しくしつけるようになりました。
手取り足取り教えるのではありません。
なにも手伝わないのです。自分でできるまでやらせるのです。
食事もそのままお椀に口をもっていって食べようとしました。
周りの子供がはやしたてます。
「わーい、犬みたいだ」
自分は犬じゃない、人間だ。
そのくやしさからついに自分で工夫をしながら、
脇にはさんだお箸で食事までできるようになりました。
さらに針しごとからなんでも自分でできるようになりました。
トイレの掃除も、口に雑巾をくわえてします。
母の厳しさは、この子が一人で生きていけるように願う
本当の愛情だったように思います。
大人になり、障害者の生きていく道は当時はこのような方法しかなかったのでしょう。
「だるま娘」という名で見世物小屋で働き始めました。
その後、結婚して子供を産み育てます。
しかし連れ添った夫も早くに亡くなり、子供も亡くなります。
これもか、これでもか、と不幸が襲います。
また、ヘレンケラーとの対面のシーンは大きな感動を覚えます。
年老いて里に帰ったとき村の住人に再会します。
あのとき子供だった人もみんな老人です。
懐かしそうに話し掛けてきます。
でも、その顔を見ると50年以上も前に、その老人が
自分を冷やかしいじめた時の姿が鮮明に浮かび上がってきます。
いじめた本人は、そんなことすっかり忘れているのでしょう。
でもいじめられた方は、50年以上経ったいまでも忘れることが出来ないのです。
中村久子さんは、この恨みの思いは神仏の心に反する、
と強く自分を責めておられます。
でもそれが、人間の姿なのでしょう。
この自伝小説は、私に人間の本当の生き方を教えてくれた大切な方から
貸していただきました。中村久子さんの講演テープも聞きました。
昭和43年に亡くなっておられますから、だいぶ古いものです。
でも、贅沢な今の時代にこそ、このような時代を生き抜いてこられた
中村久子さんのことを知って欲しいと思います。
きっとこれからの生きる糧となると思います。
この本を読んでから、私はどんな困難がきてもこう思うようになりました。
私には手も足もあるじゃないか。なんだってできるよ。
(こころの手足 中村久子 春秋社)