心の窓」カテゴリーアーカイブ

心の窓 16.三年峠

三年峠

 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。

ある日、おじいさんはいつものように山へ仕事に出かけました。

その日は、三年峠という峠を越えていかねばなりません。

朝、出る前におばあさんはこういいました。

「おじいさんや。あの三年峠には気をつけるんじゃよ。

あそこで転んだのものは、3年で死んでしまうという言い伝えがあるんじゃからなぁ」

おじいさんが三年峠にさしかかると、いつもより慎重に歩きました。

「右足の次は左足」というあたりまえのことを意識しすぎてコチコチになり、

ついに足がもつれて転んでしまいました。

「これはしまった。大変だ」とおじいさんは慌てて家に帰りおばあさんに報告しました。

(ここからストーリが2つに別れます)

——————————————————————————–
ストーリー1

おばあさんはたいそう驚いて、おじいさんを責めました。

そして、おじいさんとおばあさんは毎日手を取り合って泣き暮らし、

そのストレスから、体のあちこちに支障がではじめ、

ついに三年を経たずにおじいさんは亡くなってしまいました。

——————————————————————————–
ストーリー2

おばあさんはたいそう驚きましたが、そのうちニコッと笑ってこう言いました。

「なあおじいさんや。人間はいつかは必ず死ぬわなぁ。

3年後に死ぬと決められるとそれもつらいわなぁ。

でもよく考えてみると、三年峠で転ぶと3年後に死ぬということは、

あと3年は生きられるという保障を得られたようなものじゃわ。

わっはっは!

おじいさんや、もう一度三年峠に行っって転んでいらっしゃい。

そうすれば6年生きられるわい。

あと2回転べば9年じゃ。こりゃめでたいめでたい。」

おじいさんはさっそく三年峠に行き

コロコロ、コロコロ転び、ついに天寿をまっとうしました。

——————————————————————————–

このお話を知り合いから聞き大きな感銘を受け、
今回ストーリーを二つに分けて私なりに脚色してみました。
三年峠で転ぶということは、人生でつまづくということです。
普通に自然に歩けばよいものを(自然に人生を歩めば良いものを)
意識して自分の思うことと違う歩き方(生き方)をするとつまずいてしまいます。

人生でつまづきはつきものです。
失敗は誰にでもあること。そのあとが大事なのです。
転んだということをずーっと後悔し、三年峠という場所があることを恨み
自分の人生の期限が短いと嘆き、悲しんで一生を送るのも人生。

人間はいつかは必ず死ぬ運命にあるということを理解し、それが明日ではなく
3年後だということに感謝し、さらにそれを前向きに知恵を使って生きるのも人生。

どうせなら、限りある人生を前向きに楽しく送ったほうがいいに決まってますよね。


にほんブログ村参加中!
にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ にほんブログ村 音楽ブログ 楽器・音楽機材へ
カテゴリー: 心の窓 | コメントする

心の窓 15.豊かなのは誰?

豊かなのは誰?

 ある日、大変にお金持ちの家の父親が、息子を田舎へ連れて行きました。

息子に、人々が実際にどれほど貧しくなれるものかを見せようと思ったのです。

 父親と息子は、田舎の大変に貧しい農家で数日を過ごしました。

田舎から帰る道中、父親は息子に「どうだった?」と尋ねました。

「とってもよかったよ、お父さん」

「人々がどんなに貧しくなれるものか、わかったかい?」父親が聞きました。

「そうだね」と息子は答えました。

「おまえはこの旅で何がわかったんだい?」

父親が聞きます。息子はこう答えました。

「僕たちの家には犬が1匹しかいなけど、

あの農家には4匹いたよ」

「僕たちの家には、庭の真ん中までのプールがあるけど、

彼らにはどこまでも続く川があるんだね」

「僕たちは輸入したランタンを庭に下げているけど、

彼らには夜、星があるんだね」

「僕たちは、小さな地面に住んでるけど、

彼らの住んでいるところは見えないぐらい遠くまで広がっているんだね」

「僕たちには、僕たちに奉仕する召使いがいるけど、

彼らは他の人々に奉仕しているんだね」

「僕たちは自分たちの食べ物を買うけど、

彼らは自分たちの食べ物を育てているんだね」

「僕たちの家のぐるりには、僕たちを守るための壁があるけど、

彼らには守ってくれる友だちがいるんだね」

 息子の返事に、父親は言葉を失いました。そして、息子はこういいました。

「お父さん、僕たちがどんなに貧しいかを見せてくれてありがとう」

 私たちは、自分が持っているものを忘れて、

自分が持っていないものばかりを気にしてしまいます。

ある人にとってはどうでもいいものが、

別の人にとってはなくてはならないものである事もあります。

これはすべてそれぞれのものの見方に依っているのです。

 もし私たち全員が、「もっと欲しい、もっと欲しい」とイライラするのではなく、

与えられたものの恵みに感謝するようになったら…?と思いませんか。

毎日毎日、私たちに与えられてるものすべてを喜びたいですね。

特に友だちを。

かすが幼稚園の米川園長先生からメールでいただいた文を、許可をいただきそのまま転載させていただきました。「世界がもし100人の村だったら・・・」と同じく、出典不明のメールで広がっているようです。

私は最近気づきました。
100人村もこの文もすべて、「他人と比較して」自分が幸せなのかどうかの判断をしています。
しかし、本当の幸せとは、他人がどうだからということとは関係なしに、自分の基準で幸せなのかどうかを判断するのが、さらにすすんだ考え方ではないかと思うようになりました。

それを一番良く表現している言葉があります。
大リーグで活躍しているイチロー選手の言葉です。
首位打者が取れるかどうか、記録争いをしている最中での新聞記者のインタビューに対して
イチロー選手はこうコメントしていました。

「他人の絡むものを気にしても仕方がない」

つまり、自分は年初に立てた自分の目標数字に向かって進んでいるだけで
他人が絡んで競争するという記録にはまったく関心がない、ということです。

「競争」というのは、まだまだ次元の低いレベルの行動であるように思います。
他人と比較した成績は、他人の成績の如何によって変化します。
しかし、自分という基準のなかでの目標に向かっての努力は、まったく他からの影響を受けません。
自分の目標が達成できたかどうかが、一番大切なのです。

自分が幸せかどうかという基準も、「他人に比べて」という基準を持てばそれは
「自己満足」の世界にしかありません・・・。

「100人村」や「豊なのは誰?」という基準以上に、すべて自分がどう感じているかという基準で
生きていければ、もっと素晴らしいのではないかと思います。


にほんブログ村参加中!
にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ にほんブログ村 音楽ブログ 楽器・音楽機材へ
カテゴリー: 心の窓 | コメントする

心の窓 14.波 長

波 長

「すべてのことは、神様はちゃんと見ている」

私はいつも心に思って、仕事や生活をしています。

私は無宗教ではありますが、神様はきっといると信じています。

だって、こんなに壮大で複雑な宇宙を創造できるのは、

神様以外に考えられませんものね。

「神様が見ている」と常に意識していると絶対に悪いことは出来ないし、

仕事の手抜きも出来ません。

そして、「自分は人のために何が出来るのか」ということを考えるようになります。

また「類は類を呼ぶ」のことわざのとおり、

こういう気持ちでいると自分の周りに同じような考えの人たちが集まってきます。

不思議なことですが、本当です。

これはある実験でも分かります。

たとえば440HZの音叉を2本用意して箱の上に立てます。

そうして1本だけ棒で叩くとぶーんと 「ラ」の音が出ます。

そのうち、叩いていないのに隣の音叉も同じようにぶーんと音が出てきます。

これは共鳴の原理でもあるのですが、

1本目の音の波長が同じ波長をもった隣の音叉に影響を与えて

2本ともが鳴り出すのです。

もっと分かりやすく言うと、ラジオが音声を受信するのと同じことですね。

チャンネルを合わすと、その波長に合ったチャンネルだけが聞こえます。

ちょっとでも波長がずれると、全然違う放送が聞こえてくるはずです。

同じ波長だけが、協調し合うのです。

人の心も同じで、怒りの波長は荒い波長。

感謝や愛の波長は穏やかな波長。

つまり「神様が見ている」ということを信じて、

正しく生きようと心に決めて生きる人たちの周りには、

同じ波長をもった人達が集まってくるのです。

これが「類は類を呼ぶ」「類は友を呼ぶ 」ということなんですね。

すべての物質、そして目に見えない「心」、あらゆるものはある一定の振動数を

持っていて、それが影響を与え合っているようです。

修学旅行でグループ分けをするとき、

やっぱり似たもの同士が同じグループになりますものね。

バスの一番後の席に陣取って、騒ぐグループも大体決まってます(笑)。

私のところにピアノ調律のご依頼をいただく方も、最近”いい人”ばかりです(笑)。

もう一つ例をあげてみますと、

親しい人に電話を掛けようと電話を持った瞬間、

その人から電話がかかってきた、ということも誰でも経験があると思います。

テレパシーという、不思議な現象で片付けることも出来ますが、

私は、相手のことを「思った」波長が、距離に関係なく相手に届き

相手の思考の波長に影響を与えて、その人もフト電話をかけてみようかな

という気になったのだと考えています。

また、「あくびがうつる」という現象も、

科学的には一時的に部屋の酸素が足りなくなった、と言う説が一般的ですが

私は車のなかであくびをして、何気なく隣の車をみると、違う空気なのに

やっぱりその人もあくびをしていた、という経験が何度もあります。

これも、あくびの波長が隣に移ったのではないかと思っています。

”心の波長”に関して発明王エジソンも研究をしていたようなのですが、

人間の「心」(魂)は次元の違う、目に見えない電子体(後光やオーラのようなもの)で、

ある振動数を持ち、決して滅することのない永遠のものだ、

ということを突き止めたようですが、あまりにも難解なため、

残された膨大な資料はいまも解明できないものがたくさんあるようです。

音楽の世界で、良い演奏会の素晴らしい波長が

観客の心にそのまま影響を与えて、感動が伝わるように、

心の波長があると信じて、正しく生きようと心がけることが

幸せな人生を送れるコツかもしれません。

ちょっと難しかったかな?
いろいろな本を読んでみると、歴史に名を残した偉人は、このような心の作用をすべて知った上で
大事業をなしとげてきたように思います。

「神様が見ている」と思って、あらゆることに感謝の心で生きていくと、とてもよい波長が自分の心から発しているような気がしてなりません。
私の修行もこれからです・・・。


にほんブログ村参加中!
にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ にほんブログ村 音楽ブログ 楽器・音楽機材へ
カテゴリー: 心の窓 | コメントする

心の窓 13.国際結婚

国際結婚

昔のある日にタイムスリップして、その日の雑誌記事を元に調査する

という企画の番組をテレビでやっていました。

その中で素晴らしい言葉がありました。

当時はまだ珍しかった世界1周のバイク無銭旅行というのをしている日本人の

男性が、イタリアのある富豪の娘と知り合い結婚のプロポーズをしたのです。

両親は悩み教会の神父さんへ相談しに行きました。

「彼はとてもいい男だがクリスチャンではない。環境も違いすぎる」

そこで神父さんはこう答えました。

「あなた達は今まで自分の娘を信ずるがままに育ててきた。そして娘のことを

信頼しているはずだ。娘を信じるということは、自分を信じることと同じです。

彼はクリスチャンでもないのに、愛する女性とその家族のことを少しでも

理解しようと教会に通い、聖書の勉強をしているのですよ。娘の信じた相手を

信じてやりなさい」

そうして、無事結婚。

このご夫婦は、4人と子供と世界の恵まれない子供を4人引き取って育て上げ

素晴らしい人生を送られています。

自分が教育した子供のすることは、すべて自分なんですね。
「うちの子に限って・・・」という言葉をよく聞きますが、
これも「原因自分説」で考えると、誰のせいでもない、自分の責任なのです。

このご夫婦の素晴らしいところは、めぐまれない子供を引き取るときに
家族全員で相談し、子供達だけでも話し合いをさせて決めていることです。
親の押し付けではなく、子供の自主性も持たせているというところが素晴らしいと思います。


にほんブログ村参加中!
にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ にほんブログ村 音楽ブログ 楽器・音楽機材へ
カテゴリー: 心の窓 | コメントする

心の窓 12.礼節の国 

礼節の国

新聞の投書欄に「感銘を受けた日本人のよさ」という題で、

記事が掲載されていました。以下一部転載文です。

私はビジネスで、韓国ソウルから京都へ滞在することがあります。

経済大国に発展した日本で、商売上だけではなく、文化特性についても

教えられることがあります。

先日、雨が降り風の強く吹く日のことでした。

あるスーパーで雨を避け、スーパーの入り口で立ち止まっていたとき、

外の店頭に陳列されていたプラスチックの花瓶が強風で倒れました。

ちょうど入り口にさしかかった女性客が、丁寧に立て直して行きました。

しばらくしてまた一陣の風が吹き、倒れてしまいました。

そのとき、中年の女性が通りかかり、また同じように腰をかがめ

ハンドバックを手と傘を手に持ち、もう一方の手で花瓶を元通りに立て直し、

店の中へ入っていくのです。

その婦人も客人なのに、まるで自分のことのように雨にぬれながら、

花瓶を立て直していきました。

私は偶然に目撃したこの光景から、日本人の高い社会秩序性と

文化的特性の高さに、いたく感動させられました。

韓国も礼節の国ですが、日本からたくさんのことを学ばなくてはならないと

実感しました

(京都新聞 2002年1月29日「窓」欄より)

昔の日本人は、このようなことはあたりまえだと思っています。
韓国も「礼節の国」です。お隣の国にいつか笑われることのない国にしたいですね。

ところで、高級レストランで、フォークを落としても自分で拾っちゃいけない、という
西洋のマナーを初めて聞いた時、素朴に「どうして?」と思いました。
自分が落としたのにウェイターに拾ってもらうの悪いじゃないの? と思いました。
でもこれが日本人なんですね。
西洋では、プロの仕事を奪ってはいけない、という考えから出来たマナーのようです。

他にもこんな話があります。
アメリカで、ある日本人が商品の納入が遅れたので、あわててトラックを展示場へ乗り入れて
荷物を下ろすのを手伝いだしたところ、現地の作業員は一斉に「ノー!」
「これはオレたちの仕事であって、お前たちが手伝うのは越権行為だ」と言われたのです。
お前たちは荷物を運ぶのが仕事、われわれは荷物を下ろすのが仕事、
商品を店に並べる仕事の人や、販売するのも全部それぞれの役割があるというのです。

遅れていたので急いでやってくれるのかと思えば、いつものペースでノンビリとやっている。
日本人ならまず手を貸すでしょうね。
国民性の違いといえばそれまでですが・・・。


にほんブログ村参加中!
にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ にほんブログ村 音楽ブログ 楽器・音楽機材へ
カテゴリー: 心の窓 | コメントする